1.スパイの不覚
彼の名は一郎。
裏の世界では腕利きのスパイとして名を馳せている。
今回、彼に舞い込んだ依頼は『欅共和国』の中で要塞と化している『欅ハウス』に潜入し、その実態…そして統治神と称される『ヒラテ』の素性を暴くこと。
裏社会の使者から提示された桁外れの破格な報酬に釣られ、一郎は、早速、その『欅ハウス』とやらに潜入した。
最初は難なく事が進んでいた。
雲行きが怪しくなったのは隠し階段を見つけ、その先の地下室に入ってからだ。
暗い通路を歩いている時に、急に意識が薄れ、目眩がした。
ほんのり異臭がする。
閉じかけの瞼を見開き、目を凝らすと、天井のダクトから霧のようなスモークが吐き出されていた。
なおも鼻をつく異臭に、
(このニオイは…エーテルだ…!)
と気付いたまではよかったが、そこから一郎の身体は急激に重くなり、目もかすんで、やがて冷たい床に這いつくばってしまった。
その後、昏倒しながらも、うっすら覚えているのは、誰かに左右から身体を起こされ、どこかへ連行されたことだけ…。
……
「うぅ…」
目を覚ました一郎。…だが、動けない。
視界に映ったのは見覚えのない部屋で、そこで自分が今、不穏な配置で建てられた十字架に磔にされていることに気がついた。

しかも、いつの間にか服を脱がされてパンツ一丁…。
「くっ…!」
身体をよじるが、拘束が外れず、逃げられない。…というより、そもそも力が入らない。
(な、なぜだ…?)
不審に思って真横に伸びる右腕に目をやると、身に覚えのない注射痕を発見。
どうやら眠らされているうちに、何か、筋弛緩剤のようなものを注射されたらしい。
(ま、参ったな…)
一郎はうなだれた。
潜入失敗…。
敏腕スパイとして活動する彼にとって、初めての不覚だった。
(と、とにかく脱出しなければ…!)
だが、依然、思うように力が入らない。
そんな、なかなか消えない全身の倦怠感と戦うこと数分。
ふと、部屋の外から、コツ、コツ…とヒールの足音が聞こえた。
(…!)
咄嗟に身構えた眼になる一郎。
そして、ドアが開き、現れたのは二人の女。
今回の任務にあたり、事前資料をしっかり頭にインプットしてきた一郎にとって、どちらも写真で見たことのある顔だった。
(す、菅井友香と…守屋茜…!)

ともに、この『欅共和国』を統治する中心人物。
そんな二人が、
「ふふっ…ごきげんよう…♪」
「私たちの国の居心地はどうかしら?」
と意地悪な笑顔で話しかけてくる。
すぐさま返す刀で、
「居心地?…最悪だ!こんな悪趣味な捕らえ方をしやがって…!」
と一郎は吐き捨て、
「今すぐ俺を解放しろ!そうすれば、貴様らも命だけは助けてやる!」
と息巻いた。…が、二人は臆する様子もなく、
「あらあら。磔にされてパンツ一丁、みっともない姿のくせに偉そうに…」
「むしろ助けてもらうのは貴方でしょ?」
と二人に笑われる始末。
冷や水を浴びたように、
(そ、そうだった…俺は今…)
すっかり忘れていた今の自分の状況と格好。
そして、
「まったく…今、自分が置かれている立場を分かってないのかしらねぇ?」
その言葉の直後、ふいに茜の膝蹴りが無防備な脇腹めがけて飛んできた。
ドゴォッ!
「んぐっ…!がはっ…!」
痛みの後、思わず息が詰まる苦しさにも呻き声を上げる五郎。
蹴った茜は笑みを浮かべ、
「分かった?今のアンタはまったくの無力…おとなしく私たちの聞くことに答えればいいの。そうすれば、命までは取らないで、あ・げ・る…♪」
と、先ほどの一郎の啖呵を、そっくりそのまま言い返してきた茜。
表情こそ笑顔だが、その全身から溢れ出る威圧感を前に、戦慄が走った一郎。
「し、質問…だと?」
「じゃあ、まずは〜…♪」
菅井が十字架の背後に回り、一郎の肩に顎を乗せるようにして、
「貴方の名前から聞こうかしら?そして、何処の誰なのか?それから、ここに忍び込んだ目的もね」
顔のすぐ横から覗き込むようにして問う菅井に対し、
「そんなこと、喋るワケがないだろうッ…だいたい、お前たちは…」
と突っぱね、続けて何かを言いかけた一郎だが、それを言い切る寸前で、ぎょっと目を剥いて絶句してしまった。
目の前に立つ茜がいつの間にか手にしていた鞭…!
それを振りかぶり、手始めに一発、磔にされた一郎の身体めがけて打ちつけた。
ピシィィッ…!
「がぁっ…!」
乾いた音とともに肌を一閃。
焼けるような痛みが走って顔をしかめる一郎を、射抜くような眼で睨みつけた茜が、
「余計なことは言わなくていいから質問に答えなさいよ」
「くっ…!」
「名前は?」
「お、お前たちに明かす名前などない…ぐわぁっ!」
反抗した瞬間、再度、茜の放った一撃がクリーンヒット。
「ほら。さっさと言わないと、身体中がミミズ腫れになっちゃうわよ?」
「ぐぅっ…!」
「さぁ、早く言いなさい。名前は?」
「や、山田太郎…ぐわぁぁっ!」
「そんな、いかにも偽名みたいな名前の筈がないでしょ?すぐバレるようなウソはよしなさい」
呆れた様子の茜。
その後も、反抗するたびに鞭を打たれた一郎。
「うがぁっ…!がぁぁっ…!」
と呻き声を上げるその身体は、みるみる赤く腫れ、鞭を打たれたと一目で分かる痕が次々に刻まれていく。
だが、こうしていくら痛めつけられようと、自分の素性やクライアントのこと、この『欅ハウス』に忍び込んだ目的などは、決して知られてはならない。
(は、吐いてたまるものか…この程度の拷問で屈するほど、俺はヤワな男じゃないぞ…!)
と、この時点ではまだ一郎も強硬な態度を取れていたのだが…。
(つづく)