山下美月の秘め事 (プロローグ)
某月某日、朝。
電車に揺られる一人の青年がいた。
名は将吾。
彼は、昨日も、そして一昨日も同じ時間、同じ電車の同じ車両に乗っている。
時刻はきまって朝9時過ぎ。
通勤ラッシュの時間帯は過ぎたとはいえ、都内の鉄道網は、まだまだ、それなりの混雑が続いている。
(はぁ〜…毎日、毎日、めんどくせぇ…)
気分が上がらないのは目的地のせいだろう。
彼の向かう先は職業安定所、俗にいうハローワークである。
先日、それまで勤めていた工場をクビになった。
元から気の合わなかった同僚にあれこれケチをつけられ、ついキレてしまった。
それだけなら何処でもよくあることなのだが、まずかったのは、怒りに任せて、その同僚を殴りつけてしまったことだ。
それ自体は後から謝罪をして和解したが、職場内で暴力沙汰を起こしたということで、将吾は高校を卒業してからずっと勤めた工場をクビになってしまった。
よって今は無職。
独身で一人暮らしの将吾にとって、稼ぎが無くなるなんてことは死活問題だ。
ひとまず今月は貯金を切り崩して何とか凌げるが、その貯金も来月には食い潰してしまうだろう。
やってしまったことはもうしょうがないとして、とにかく、一刻も早く次の仕事を見つけなければならない。
ここ数日、朝一番で通い詰めては延々とコンピュータで求人情報を漁っているが、なかなか希望に見合った仕事が見つからない。
(やはり、条件諸々、多少は妥協しないといけないか…)
そんなことを考え、ぼんやりと車内の吊り広告を見ていた時、ふいに将吾は、満員電車の中、人混みに埋もれた自身の右手に違和感を感じた。
何かに掴まれ、ぐっと引き下ろされたのだ。
(え…?)
手の平に触れる柔らかいもの。
ぎょっとして目を下ろすと、目の前にいた女のタイトスカート越しにお尻が当たっていた。
電車が減速し、ホームに滑り込む。
周りの乗客が、一斉に降りる準備を始める間も、女の尻が手の平の中にある。
(な、何だ?この女…?)
将吾がそう感じたのは、明らかに自分から将吾の手をお尻へ誘導したからだ。
だが、電車が停まり、ドアが開いた瞬間、
(…!?)
それまでおとなしかったその女が急に将吾の手首を掴み上げた。
「イテテテ…!」
「…降りてください」
「はぁ?」
「今、私のお尻、触ったでしょ?」
「な、何を言って…!」
「いいから降りて」
小声のやりとりがあった後、強引にホームへ引っ張り出された将吾。
改札口へ向かう人の流れの中で立ち止まり、口論が始まった。
女は怒気を含んだ眼で、
「今、完っ全に触ってましたよね?」
「バ、バカなことを言うな!自分から触らせたんじゃないか!」
「自分から?いやいや…そんなことするワケないでしょ!」
と、その女は一蹴し、
「しらばっくれるなら、警察、呼びますよ?」
「け、警察!?何を言ってるんだ!バカバカしい…!」
と言って背を向けようとする将吾だが、内心、動揺していた。
自分ではもちろん、この女の方から手を掴み、無理やり触らせてきたと思っている。…が、それによって“触っていたことは事実”だからだ。
それに、自分は、今、無職。
それも、つい先日、職を失ったばかりだ。
<無職男性、電車内で女性の身体を触る>
<仕事をクビになってムシャクシャしていた>
<容疑を否認するも乗客の中に目撃者多数>
など、新聞の見出しに使われそうな文句が矢継ぎ早に頭をよぎる。
「ねぇ、待ちなさいよ!」
と女が立ち去ろうとする将吾の手首を掴む。
女とは思えない強さ…まるで、そういう心得があるかのようだ。
「は、離せよ!」
「逃げるつもり?やましいことがあるから逃げるんでしょ!?」
「べ、別に逃げるワケじゃない!」
と将吾は言い返すも、行き交う周りの人たちからは次々と疑惑の視線が向けられている。
(ウ、ウソだろ…!?)
「とにかく来て!」
女は、将吾の手首を引っ張り、
「暴れたら本当に警察に行くよ?」
「ち、違う…!誤解だって…!」
と言い張る将吾に対し、女が一言、
「でも、触って、なかなか手を引かなかったのは事実でしょ?」
と、核心をつくことを言った。
その一言に、ぐうの音も出ず、完全に萎縮してしまった将吾。
「…ついてきて」
と言われ、その女、山下美月に引っ張られて連行される将吾。
一説には、たとえ冤罪でも、駅員に引き渡された時点で警察にも通報され、かなり分が悪くなると聞く。
かといって逃げ出せば、逃走と見なされ、余計に疑いを濃くする。
(ど、どうすればいいんだ…!?)
将吾の顔が、みるみる青ざめていった。
(つづく)