久保史緒里のその後… (中)
(は、遥希先輩…!?)
慌てる史緒里に、遥希は、もう一度、
「ここ空いてる?座っていい?」
「ど、どうぞ…」
妙な緊張が全身を包む。
遥希は史緒里の隣に腰を下ろすと、
「向こうのテーブル、だんだん酔いが回ってきたみたいでさ。酒グセ悪そうなのもいて面倒なことになりそうだから、こっそり逃げてきたんだ」
と苦笑してから、
「久保…だよね?元気してた?」
「えっ…ま、まぁ…」
と史緒里はキョドりながら頷いた。
そして、内心、
(私のこと、覚えてくれてたんだ…!)
と思った。
実際、それを口にすると、遥希は笑って、
「覚えてるよ。自分が教えた娘だから印象に残ってる」
と自信満々に答えて、
「そっちこそ、俺のこと覚えてる?覚えてないでしょ?俺のことなんて」
「覚えてますよ。お世話になったし、バレンタインのチョコもちゃんと手作りのやつ、あげたんですから」
と史緒里は言ってから、急に我に返り、
(ちょっ…なに言ってんの、私…!)
と自分を叱った。
ひそかに想いを寄せていた先輩が、突然、隣の席に来て、頭が真っ白になってしまっている。
恥ずかしさが込み上げて黙ってしまうと、遥希は、史緒里の横顔を覗き込んで、
「…どうした?顔、真っ赤だぞ?飲み過ぎか?」
「━━━」
「久保って、今も仙台に住んでるの?」
「い、いえ…」
(もう仙台には住んでいなくて…)
と答えようとした時、たまたま通りがかった幹事が酔いに任せて会話を奪い、
「聞いてくださいよぉ、遥希さん。史緒里ったら私たちを差し置いて一番最初に東京デビューしたんですよ」
「ちょ、ちょっと…!」
慌てて制止する史緒里をよそに、幹事の口は止まらず、
「羨ましいですよねぇ?私も東京へ行ってシティガールになりたいですよぉ」
「へぇ〜。じゃあ、今は、東京…?」
「そう!今日も、わざわざ東京から新幹線に乗って来てくれたんです。凱旋ですよ、凱旋!」
「も、もういいって!やめてよ!恥ずかしいから…!」
史緒里は、顔を真っ赤にしながら酔っ払った幹事を向こうへ押しやった。
遥希はニコニコ笑いながら捌けていく幹事を見送ると、再び史緒里に向き直り、興味津々の様子で、
「東京暮らしって、本当?」
「えぇ、まぁ…」
「上京して、どれぐらい?」
「卒業してすぐだから…もう、けっこう経ちますよ」
「じゃあ、もう慣れた?」
「う〜ん…。でも、道を覚えてるのは、まだ家の近所だけです。私、方向オンチだから少し離れたらもう右も左も分からなくて…」
「へぇ〜」
遥希はグラスの飲み物を飲み干して、
「久保が東京か…。そう言われてみれば、確かにオトナっぽくなった気がする。垢抜けた感じがするよ」
「そ、そうですか…?」
「どうなの?実際。…モテるでしょ?」
「そんな…全然ですよ…」
「ホントに?彼氏は?」
「いませんよ、彼氏なんて…まったく…」
「え、マジで?」
遥希は驚いた様子で、
「やっぱり東京の人ってのは目が肥えてるのかな?もったいないよ、こんなに可愛いのにさ」
「━━━」
話の流れの中の何気ない一言にも、つい頬を赤らめ、照れて俯く史緒里。
それを誤魔化すため、
「…遥希先輩は、今、何を?」
「俺?俺は…」
と遥希が言いかけた時、酔っ払い幹事が再び現れて、
「ねぇ、史緒里。知ってる?遥希さん、パティシエなんだよ」
「パ、パティシエ…!?」
意外な答えに驚く史緒里。
詳しく聞いたところ、現在、遥希は仙台市内にある有名なケーキショップで修行の身として働いているという。
さらに史緒里が目を丸くしたのは、来月、そのショップの二号店が都内にオープンする予定とのこと。
「じゃあ、その店がオープンしたら、遥希さんも東京に…?」
妙な高揚を抑え、おそるおそる聞く史緒里。
「一応、その予定だけど…まぁ、どうなるか分からないよ。すぐにホームシックになって仙台にトンボ帰りになるかもしれないしさ」
と遥希が言うと、酔っ払い幹事は急にニヤリとして、
「じゃあ、史緒里に、東京の町、案内してもらえばいいんじゃないですか?」
「え…?わ、私…?」
「東京のことは史緒里が先輩でしょ。いろいろ教えてあげなよ」
「な、何で私なのよ…!」
と顔を赤くする史緒里だが、当の遥希はまんざらでもない様子で、
「そうか。確かに東京に知り合いなんていないし、そうなると頼れるのは久保だけだもんな。お願いしようかな」
「ちょ、ちょっと…!遥希先輩まで…!」
極めつけは酔っ払い幹事の悪ノリの一言。
「何なら、そのまま、二人、付き合っちゃえば?」
(…!!)
「ほら、史緒里、当時よく言ってたじゃん?遥希さんのこと、好きだって」
「バ、バカっ…!」
カアッと頬を赤くして、その酔っ払い幹事の肩を叩く史緒里。
(ほ、本人の前で言わないでよ…!)
と、ジロリとした目を向けても酔っ払いは悪びれる様子もなく、上機嫌にケラケラ笑いながら、また別のテーブルへ絡みに行ってしまった。
さすがに遥希も苦笑して、
「アイツ…だいぶ酔っ払ってるなぁ。大丈夫かよ」
「ホント、よくあれでキャプテンなんてやってましたよね。あんな無責任に囃し立てて…信じられないっ!」
と史緒里は同調した。が、恥ずかしさと気まずさで言葉を失う。
しばらく沈黙が続いた後、ふいに遥希が声をひそめて、
「なぁ、久保。もしよかったら、俺と一緒に先に抜けないか…?」
と誘った。
誘われるまま、抜け出すように店を出た二人は、そのまま、遥希が知ってるバーに場所を移した。
ビルの八階、窓向きにカウンターがある夜景の見えるバー。
そこで隣同士で座って飲み直しの乾杯。
二人きりになれたことで、より会話は弾んだ。
遥希はいろんな話をしてくれたし、史緒里も、少しハメを外して普段は飲まないようなお酒を口にし、その勢いでどんどん饒舌になっていった。
捜査官という職業柄、その素性を明かすことは出来ないが、それ以外のことは何でも話すほど、いつのまにか心を許していた。
それは、これまでずっと、この病んだ心の拠り所を求めていた反動でもある。
笑顔が絶えないその空間。
時折、眼下に広がる夜景に目は奪われても、さっきのように腕時計を気にすることはない。
そして、店内のBGMが陽気なジャズからピアノの弾き語りになった時、
「なぁ、久保。さっきの話だけど…」
と遥希が口を開き、
「本当に、彼氏いないの…?」
と聞いた。
「いないですよ」
「もったいないなぁ。久保みたいな娘が彼女なら、男は絶対に楽しいと思うけど」
「そんなことないですよ。私なんて別に…」
と史緒里が謙遜し、
「さっきの同窓会だって、私より可愛い娘もいっぱいいたし、私より気が利く娘もいましたよ。それに比べて私なんて、本当に平凡で…」
「そうかなぁ?俺は、あの中じゃ、ダントツで久保が一番だったけどね」
「━━━」
遥希のぼそっと言った一言で、またカアッと顔が赤くなる史緒里。
「か、からかわないでください…!」
と史緒里は上ずった声を上げ、付け加えて、
「それに、私…今は、恋愛をする自信もないんです」
と呟いた。
好きでもない男に蹂躙されたこの身体…。
そんな傷物の女が、清純ぶって恋愛をする資格などないと生真面目な史緒里は思ってしまっていた。
(こんな私を…汚れた私を、いったい誰が好きと言ってくれるんだろう…?)
そんなことを思い、ふと、遠くを見るような目でグラスに口をつける史緒里。
その態度を見て、深くは聞かなくとも何かを察し、黙り込む遥希。
(いけない…!私ったら…!)
変な空気になっているのを察した史緒里は、無理やり笑顔を作って、
「先輩こそ、彼女とかいるんですか?」
「俺?いないよ…」
「え〜?ホントですかぁ?怪しいなぁ〜?」
「ホントだよ。前の彼女とも別れて、もう一年以上…しばらくいないよ」
「へぇ〜…先輩、彼女いないんだぁ…」
(だったら私と…)
一瞬よぎった言葉を黙って飲み込む史緒里。
(そんなこと言えない…私なんかが、そんなこと言っていい筈がない…)
そう言い聞かせるように、心の中で何度も自戒する。…が、一方の遥希は、それを取り除くように、
「久保はさぁ、俺のこと、どう思う?俺みたいな男には、あまり魅力とか感じない?」
「え…?」
史緒里は、まさかの質問にビックリするあまり、しどろもどろで、
「い、いや…あの…す、素敵だと思いますよ。優しいし、爽やかだし、仕事だって…」
「じゃあ、もし、今、俺が『付き合おう』って言ったら、俺と付き合える?」
「え…?」
一瞬、時が止まる。
冗談とも本気ともつかぬ問いかけに、反射的に遥希の目を見る史緒里。
その瞬間、そっと重ねられた唇に、思わず見開く史緒里の両目。
自分でも分かるほど鼓動が急速に高まり、酔いとは別の意味で真っ赤になる頬。
背後のバーカウンターのマスターは、気付かないのか、それとも見て見ぬフリか、背を向けて黙々とグラスを磨いている。
そして…。
「…んんっ…!」
小さく史緒里が声を上げると同時に、さっと離れていく遥希の顔。
史緒里は、また、顔がカァッと熱くなるのを感じた。
訪れた数秒の沈黙も、体感では5分にも10分にも感じる。
遥希は、目線をスッと目の前の夜景に戻し、
「ご、ごめん…つい…」
と呟き、
「悪酔いしてるみたいだ。ちょっと外の風でも浴びてくる」
と言って、立ち上がった。
その背中を慌てて追いかけ、遥希の手を掴む史緒里。
「待ってください…私も一緒に…」
と言って立ち上がるも、酔いのせいでふらつき、思わず抱きついてしまう。
その身体を、ぐっと引き寄せ、抱き締める遥希。
マスターが依然として背を向けているのをいいことに、二人は、もう一度、口づけを交わした。
しかも次は史緒里の方から唇を重ねて、だ。
(続く)