06
眞衣はレモネードを頼んで本を開いた。喫茶エデンの店内。最近は仕事帰りにここで読書するのが
日課になりつつあった。樹に連れてこられてから一週間、ほぼ毎日ここに来ていた。
「お待たせいたしました」
美月がレモネードの入ったカップを眞衣の前に置く。眞衣がありがとうと、顔をあげて言ったが美月はさっさと定位置に戻ってしまう。
眞衣はため息を一つ吐き、本を閉じると何気なく辺りを見回した。今日は樹の姿が見えない。昨日はそんなこと言っていなかったが、休みなのだろうか。
しばらく、本を読みながらレモネードを飲んでいたが、飲み終わっても樹は姿を見せることはなかった。客足も途絶えて手持ちぶさたになったらしい桜庭と他愛ない話をしてから眞衣は諦めて喫茶店を出た。
すっかりと日が落ちた夜道。一人住宅街の道へと足を向けた眞衣の背に女性の声がかかる。
「あの、新内さん。これ、忘れものです」
振り返ると街灯の光に照らされた美月が見て取れた。近寄って来た美月から手渡されたのは、さっき鞄に入れたと思っていた本だ。
眞衣は礼を言って笑顔を向ける。だが、美月は難しい顔をして、俯いてしまった。どうしたのだろうか。まだ、何か用があるのか。訝って声をかけようとしたとき。
「あの、もう、店に来ないでもらえますか」
眞衣は眉を顰めた。眞衣が口を開くよりも早く、さらに美月は続けた。
「不安なんです。あなたが来ると。彼を取られちゃう気がして」
ああ、そう言うことか。と眞衣は納得した。
美月は樹の彼女だ。幼馴染のお姉さんが毎日のように来て、親しげに話しているのを見るのが辛かったのだろう。
「私、妊娠してるんです」
投げつけられた思いもしないその言葉に眞衣は息を飲んだ。
「え? だって、あなたまだ」
「十九だって子どもは産めます!」
美月のあまりの剣幕に眞衣は口を閉ざした。
「彼にも話しました。彼は、結婚しようって言ってくれたんです」
美月の言葉に眞衣は心に暗雲が立ち込めたような気がした。
結婚。子供。頭の中を廻る予想もしなかった言葉たちに呼吸することさえ忘れてしまう。
「結婚しようって言われても、あなたを見ると不安で不安で仕方ないんです。だから」
美月の目に涙が浮かんだのを見て、眞衣は我に返った。強がって見せても、彼女はまだ十九。きっと不安で押しつぶされそうになっているのだろう。
眞衣は大きく息を吐き出し涙を流す美月の肩に手を置いた。
「ごめんね。私が軽率だった。安心して、もう来ないから、本当にごめんなさい」
美月は泣きながら大きく左右に首を振った。
「ほら、もう店に戻りなさい。マスターが心配してるわよ」
美月は涙を拭って眞衣の言葉に頷いた。美月の背を見送って、暗い気分を引きずったまま踵を返した。だが数歩も歩かぬうちに、また呼びとめられる。
「あれ? 眞衣ちゃんもう帰っちゃうの」
今一番聞きたくない声だった。振り返った眞衣の目に樹の笑顔が映る。急に泣きそうになって、樹に気づかれないように顔を背けた。
「眞衣ちゃん? どうかした?」
近づいてほしくなかったのに樹は眞衣の前まで歩み寄って来た。手には、スーパーの袋が握られている。買い出しにでも行っていたのだろうか。
「私、もう行かないから」
それだけ口にした。目を背けているので樹の表情は分からない。
「えっ、どういう意味?」
抑揚の少ない声が眞衣の耳を打つ。眞衣は続ける。
「彼女と仲良くね」
あまり長くしゃべると泣きだしてしまいそうだ。
こんな日が来るとは思っていた。いつか、自分の手を離して樹が遠くへ行ってしまう日が来ると。
眞衣は踵を返して走りだそうとした。だが、腕を強い力で掴まれてしまう。
「眞衣ちゃん、何言ってるか分からないって。俺、彼女なんていないし」
「嘘つかないで! 私が別れたばかりだから、気を使ってくれてるんでしょ。別に、そんなことしなくていいのよ。私は樹のお姉ちゃんなんだから」
言いながら掴まれた腕を振り払い樹の手から逃れた。
睨みつけるように見ると樹の顔から怒りが見て取れた。今まで、こんな顔を向けられたことのなかった眞衣は驚いて息を飲む。
「また、彼氏できたんだ。だから、もう来ないなんて言うんだろ」
「何を怒ってるの?」
震えそうになる声を抑えようとして、低い声が漏れた。樹は眞衣から眼を逸らした。
「否定しないのかよ。もういいよ。行けば」
突き放すような声。こんな冷たい樹の声を聞くのは初めてで、体が竦んで動けない。
動かない眞衣を軽く見やってから樹が先に動いた。眞衣に背を向け、歩き始めた途中で動きを止めて、口を開く。
「俺、眞衣ちゃんのこと、お姉ちゃんだなんて思ったことないから」
そう言い残して、樹は歩き出す。
眞衣は無意識に樹の背に向かって手を伸ばした。決して、届きはしないのに。