聖なる夜は乾杯で
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「ありがとう」

 ひとしきり泣いた茜はか細い声で呟いた。俺は黙って首を振り、そして優しく問い掛ける。

「彼はいい人?」

 俺を見上げる茜の首がコクリと小さく頷いた。

「ならよかった」

 俺はニコリと微笑んだ。

 茜の頬は濡れていた。けれど、その瞳はしっかりと俺の微笑みを映している。

 そして、その微笑みは弱くなく、力みもなく、影もない柔和な優しい微笑み。だから俺も似たような微笑みで最後の言葉を告げたのだった。

「さようなら」

 俺は彼女の瞳を覗き込み、自分の唇が別れを告げ終えるその時まで、笑顔でいた茜を見届けた。

 茜がようやくに落ち着くと俺は彼女を連れて美彩さんと彼氏のいるベンチへ歩いていった。

「さようなら」

「元気でな」

 茜の声に涙はなかった。俺は軽く手を挙げて応えた。

「竜くん、行こ」

 茜は彼の手を握る。彼はまだ何か言いたそうだったが美彩さんが睨むとすごすごと引き下がり、茜に手を引かれて去っていった。

「何かしたんですか?」

「さあ?」

 美彩さんは肩をすくめてはぐらかすと、顔を横向けに俺を見上げ、フムフムとうなずいた。

「いい顔になったね」

「そうですか?」

「晴れやか。うらやましいよ」

 そう言う美彩さんは何度も何度もうなずきながら、ふらりふらりとベンチに座った。

「う・・・ん」

 酔いがいよいよ深くなったのか美彩さんは膝に肘を突き、項垂れ固まってしまった。

「だ、大丈夫ですか?」

 美彩さんの隣に座り、その背中をさすってあげる。

「うらやましいなぁ・・・」

「美彩さんのおかげです」

 私は独りごちる美彩さんの背中をさすりながら、感謝の言葉を述べた。

「・・・何が?」

 疑問に眉寄る美彩さんの赤ら顔がこっちを向いた。

「美彩さんと逢わなければ、自分に反省することもできませんでしたし、彼女に謝ることもできませんでした」

 さする背中は摩擦にじんわり熱を持ち、俺の手にもぬくもりを与える。もし今日、美彩さんと逢えていなければ、俺はこうしたぬくもりの持つ意味をきっと知ることができなかったはずだ。

 そして、俺が手を降ろしたあのときに美彩さんが茜を呼び止めてなかったら、私のこの悔悟の想いは一生伝えることができなかっただろう。

「あの時、どうして呼び止めたんですか?」

 さっきから気になっていた疑問だった。美彩さんはとろけ気味の目を細くして答える。

「自分から別れといて、泣くなんてずるいから」

 赤い顔は前を向き、どこへともない視線を上げる。横顔に映るその頬はわずかに紅潮にふくらんで見えた。

「泣かれたら、怒るわよ。泣きたいのは、こっちなのに」

 吐く言葉は息白く、虚空にこぼれて消えていく。

「なのに『ごめんな』なんて」

 青い光に影差した美彩さんの横顔が不意にこちらに振り向いた。

 そして笑った。弱く、切なく。

「こうちゃんは偉いよ。泣かせてあげるなんて、私にはできないもの」

 それはひどく痛ましく、今にも崩れそうな、とても華奢な笑顔だった。

「大丈夫ですよ。大丈夫」

 けれどそれでも美彩さんは笑っているのだ。何かに耐えて。

「大丈夫。大丈夫ですから」

 背中をさする手を強くして、俺は同じ言葉を繰り返した。

「だから泣いたって構わないんですよ。無理になんか笑わないで。泣きたいのなら、誰に向かって泣いたって構わないんですから」

 俺は美彩さんに微笑み返し、背中をさする手を肩に回して、包み込むように美彩さんを揺すってあげた。

「何それ。ずるいよ」

 美彩さんの顔がくしゃくしゃ歪み、やがてぼろぼろと崩れていって、俺の膝に倒れ伏せた。

 美彩さんは泣いた。声を上げて泣いた。

 膝が濡れる淡い熱に俺は美彩さんの髪を撫でていた。梳く髪は、やはり手には残らない。

「優しいのは、やっぱりずるいんですかね」

「ずるい」

 美彩さんの声はぐじゅぐじゅに濡れていた。俺の胸には寒さに震える子猫を抱くような慈しみがあった。美彩さんはきっとそんな憐れみに似た優しさなんて求めてはいなかっただろうに。

 ホテルのラウンジで酔った俺が美彩さんにキスを迫ったときを思い出す。

 掴んだ肩がわずかに身悶えたように感じた。

 美彩さんはこの抵抗を乱暴に壊してもらいたかったのだろう。自分を汚して、戻れなくなってしまいたかったのだろう。

 なのに俺は優しく髪を撫でている。

 やがて、泣き声はぐすぐすと弱くなり、ついには止んで美彩さんはむくっと起き上がった。

「ありがと」

 俺の胸を軽く押して、美彩さんは身体を離す。その顔は泣き腫らしたまぶたの赤さに濡れていた。

「大丈夫ですか?」

 美彩さんはまっすぐにうなずき、そして笑った。

「もう、帰るね」

 その笑顔は先程よりも幾分か晴れやかに、自然にほころんで柔らかく見えた。

「私もちゃんと別れる」

 そう言って立ち上がった美彩さんの身体が、そこで大きく前に傾いだ。

「あれれ?」

 倒れまいと踏み出す足が、二歩、三歩と進むにつれて追い付かなくなっていく。

「ちょ・・・美彩さん!」

美彩さんは派手にすっころんだ。



鶉親方 ( 2017/12/10(日) 15:55 )