三十六曲目 〜Squall〜
晃汰が梅澤をベッドに押し倒した夜から、写真集の被写体はいつにも増して眩しいほどの笑顔をカメラに向けるようになった。眼の奥まで透き通るような透明感、現代のデジタル技術を屁ともしない素肌がより一層引き立てられる。
「どうしたんだ、梅ちゃん。凄い良い…」
カメラマンの背後で撮影を見守る顔馴染みのスタッフ達は、声がのらないメディアである事を良いことに、思い思いを述べる。連中には何故梅澤の表情が途端に輝きを増したのか分からなかったが、それでも撮影が良い方向に向かえばという一念は全員が共通して持っていたし、誰一人としてそのキッカケを知ろうとはしなかった。
一方の晃汰は、相変わらずにレンタカーの中でiPadを駆使して仕事をこなしている。日本との時差が1時間ほどな為、ほぼリアルタイムで本国で起きている事が把握できる。だが、出張中の晃汰にそこまでの仕事量を与える事は無く、彼の技量では一時間もあれば終わってしまうような業務ばかりである。それからと言うもの、暇を持て余すとメンバーのスケジュールを確認し、暇をしてそうなメンバーに電話をかけるのが晃汰の日課になっていた。
「昨日の夜、いきなり梅澤にガチギレされて…日奈子さんの写真集の時に言ったじゃないですか?撮影にあんまり顔出したくないって。なんかそれが彼女としては気に食わなかったみたいで…」
今日の晃汰の相手は北野だった。同様に写真集の撮影に同行した彼女に、晃汰は昨晩あった出来事を包み隠さず話した。
「でもそれはさ、晃汰も悪いと思うよ?最初からそうやって言えばいいのに、私の時も後出しでさ…女の子って結構そういう所、気にするんだよ?」
北野に正論を返され、女って面倒くさいなと晃汰は喉まで出かかった。
「そんなもんなんですかね?女の子って承認欲求の塊なんですね」
違う言葉に置き換えてはいるが、要は面倒くさい。写真集を出すぐらいだから自分の身体に自信を持っているはずだし、それを認めて欲しいというのは晃汰にもわかる。彼は彼でギタリストというアイドルと似て魅せる事が仕事だから、そこら辺のニュアンスはわかっていた。だが、同僚が布を一枚着ただけの光景は、どうしても耐え難いものがあった。
「それより、こっちは大変だよ?みんな晃汰ロスで大騒ぎ。徳長さんはなんかあたふたしてるし、三期生の皆はなんか暗いし…早く戻ってきて!」
なかなか無茶な要望に、晃汰は苦笑いを吹き込むしかなかった。こっちにも予定あるしな、電話の向こうの北野にそれを言っても始まらない事は分かってはいるが、晃汰は慌てふためく連中を想像すると無性に日本に帰りたくなった。
「でも大丈夫!京介が凄い動いてくれて助かってるから!」
電話越しでも表情が分かるような北野の声で、晃汰は安心する事ができた。竜恩寺という存在がいたから、長期間日本を離れる事ができた。時に不器用な所がある晃汰とは違って繊細な気遣いのできる竜恩寺は、ギタリストになる時の晃汰の抜けた穴をしっかりとカバーしている。
北野伝いに日本で起きている事を直接聞く事ができ、帰国した直後に浦島太郎状態にならずに済む。晃汰は少しの安堵感を胸に、再びiPadに眼を移し仕事に没頭する。
太陽が西に傾き始めた頃、誰かが窓を叩く音で晃汰はiPadから眼を離した。撮影クルーが引き上げてきており、晃汰は慌ててドアロックを解除すると車から飛び降り、機材の積み込みを手伝う。
「今日の梅、凄い良かったよ。オーストラリアで新しい自分見つけたのかな?」
クルーのひとりが被写体の出来に舌を巻くと、他のクルーやメイク担当も同調した。それほどまでに梅澤は輝いていたのだ。だが、そのキッカケとなってしまったであろう晃汰は、頬が引きつると同時に冷や汗が溢れてくる。
「そ、そうなんですね。それはそれは…」
あまりにも他人行儀なセリフになってしまったが、そこに突っかかってこない事を良しとし、晃汰は荷物の積み込みを続けた。勘繰られてしまったのではないかと不安にはなったが、何事もなく全員が車に乗り込んで出発する事ができて、晃汰はハンドルを握りながら安堵のため息を吐いた。
慣れない海外をいつになく真剣な表情をして運転する晃汰の隣で、梅澤は長い生脚を畳んでスマホを弄る。前髪をアップにして額を出している彼女は、横から見ても幼さを醸し出している。
「なんか今日、調子良かったみたいじゃん」
ルームミラーに映るクルー達が寝ているのを確認し、晃汰は梅澤に話の糸口を投げかける。
「みたいですね、カメラマンさんが凄い褒めてくださって」
梅澤はスマホから目線を変えずに、晃汰に答える。チラリと右隣を見たが、スポーツサングラスをつけている彼の目線を予測するのは難しい。日本のように赤信号に引っかかることが殆どない為、晃汰が顔ごと梅澤を見ることもない。抱えた膝の上に頬をのせると、梅澤は再びスマホを弄り始めた。
「何がキッカケか分からないけど、良かったじゃん」
尚も前しか見ない晃汰だったが、口元に笑みを浮かべる。
「分かってるくせに」
同様にスマホしか見ていない梅澤だったが自分がいま、どんな表情をしているかは分かっていた。二人しか知らない秘密を言い合う、小学生カップルの様な悪い笑顔である。
ホテルまでの帰り道、往路が二時間もかかったならば復路もそれぐらいの時間はかかる。あとは帰るだけの急ぐ必要がない事を晃汰は理解していたから、撮影地とホテルとのほぼ中程にある自然公園に一度車を停めた。仕事の時間も含めて一日のほとんどをシートに座っていたから、背中や腰がガチガチだった。晃汰は外に出ると大きく背伸びをし、身体中の関節をほぐす。若いのになとは思うが、他の同年代が一日中車のシートに座って仕事をしているとは考えにくく、自分にしか味わえない事を全うしていると考えると、年齢の割に硬くなった腰にも晃汰は納得がいった。
「帰ったらマッサージしてあげましょうか?」
フロントガラス越しにその様子を見ていた梅澤は、車から降りるとストレッチをする晃汰に声をかけた。
「あぁ、どエロい衣装付きで頼むわ」
例によってトムクルーズと同じレイバンをかける晃汰は、自身の左隣に歩み寄ってきた梅澤を横目で見た。彼女も同じように長い腕を空に向かって伸ばし、撮影と長時間の乗車で固まった身体をほぐす。その時、ノースリーブという凶器的な服装のおかげで梅澤の女性的な凹凸が強調され、晃汰は思わずポロリとこぼした。
「意外と胸、あんのな」
人によってはセクハラに当たるが、晃汰と乃木坂メンバーとの間にその概念は通じない。それを知っているから晃汰も平然と今をときめくアイドルの気にする部分を、ちょっとした話題の中でイジる。
「やっぱそう思いますよね!?まあ、けっこうブラで寄せてるんですけどね」
「それを言うんじゃないよ」
自身の胸を触る仕草付きで、梅澤は嫌な顔など皆無で晃汰に答えた。フッと鼻で笑ってあしらうが、正直なところ晃汰にとったら胸の大きさなどどうでもよかった。女の価値が胸の大きさで決まらない事ぐらい晃汰にも本人にも分かっていたし、勝ち負けがつくことがあってはならないとさえ思っている。ただ比較的に乃木坂46というグループは、その辺の武器に乏しい連中が多い傾向にあり、各人何かしらの個人的な対策を講じているという噂を晃汰は耳にしたことがある。
オーストラリアの雄大な自然を象徴する自然公園は、夕陽の光も相まって幻想的な景色を見せつけてくる。ふと、現地に来てからそれっぽい事をしていないことに気づいた晃汰は、車内で待機していたクルーに断りを入れ、梅澤と二人っきりで公園を歩くことにした。
「来るか?」
顎を少しだけ動かして訊ねてくる晃汰に、梅澤は二つ返事でついてきた。店で二人っきりのディナーも良いが、今の梅澤はこういった何気ない二人の瞬間を欲していた。夕暮れの公園で二人っきり、しかも目の前には世界有数の大自然が広がる。
「あんまりはしゃぐんじゃねぇぞ」
子どものように自由奔放な梅澤を、晃汰がまるでしつけをするかのように制する。日本人男性の平均身長に迫る長身美女が飛び跳ねるのは、大柄な体型の人々が多いオーストラリアでも目立ってしようがない。それが悪目立ちの部類に入ってしまうから、晃汰は一個下の彼女を窘めたのだ。
「だってオーストラリアですよ!?しかも二人っきりで」
どういう思考回路で物事を言っているのか、晃汰は梅澤の脳内が若干心配になってきた。
だが、見える自然がオーストラリアなら天候もオーストラリアである。日本の夕立とは比にならないスコールが、なんの前触れもなく二人に襲い掛かった。それも運悪く、二人が車から歩いてだいぶ行った頃だった。土砂降りの雨の中、一直線に車に戻る事が不可能と判断した晃汰は、道中に屋根のあるちょっとした建物があった事を思い出すと、梅澤の手を引いて駆け出した。
「少しおさまるまで、ここで待機だな」
濡れた髪をかき上げてオールバックになった晃汰は、離れた車にいるクルー達に連絡をとる。梅澤も同じくビショ濡れで、髪を全て後ろに持っていき一つにまとめてポニーテールにした。外はバケツをひっくり返したように雨が叩きつけ、ひっきりなしに雷鳴が轟く。その度に梅澤は身体を震わせ、耳に手を当てて塞ぎ込む。そんな彼女だが、チェック柄のスカートは雨に濡れ脚に張り付き、純白のシャツには下着の色が浮き出ているのを知らない。クルーとの連絡を終えた晃汰は彼女に眼をやった瞬間から、その様子を察知した。
「梅、透けてるぞ」
このままでは何かが危ないと判断し、晃汰は自身が着ていたジャケットを梅澤の肩にかけた。いつも晃汰が使っている香水の匂いが微かに香るジャケットは、濡れてはいるものの透けた服のカモフラージュにはもってこいだ。
「そういう眼で見るからですよ」
梅澤は悪戯に晃汰の二の腕を突ついた。エロ漫画のようなシチュエーションではあったが、二人は透けた服を笑い合って雨が弱くなるのを待った。勿論、そのちょっとした時間でも話題が尽きる事はなく、今度は晃汰が会話の主導権を握った。今までの事、これからの事、そして夢に至るまで晃汰は梅澤を相手にポツリポツリと話す。熱量剥き出しの話し方ではなく、あくまでも自分に問いかけるような落ち着いた口調であった為、梅澤は彼の話をいつも以上に前のめりになって聞いた。
雨足はだいぶ弱まったものの、依然として大粒の雨が屋根に打ち付けられている。このまま待っていてもラチがあかないと判断した晃汰は、梅澤の手を引いて小屋から飛び出した。
「ホラーマン、もっと速く走れ!」
明らかに脚の回転が追いついていない梅澤を強引に引っ張りながら、晃汰は速度を緩めない。
「これでもちゃんと走ってますよぉ!」
細長い脚を高速で回転させながら、なんとか梅澤は晃汰についていく。
時間にして10分行くか行かないかくらいの距離を、二人は走りきった。車に飛び乗るとクルーが用意していたバスタオルに身を包み、晃汰は髪をタオルドライしただけで車を発進させた。