D 新居
二十七曲目 〜引越し〜
 86を修理に出してから曜日が一周しようとする頃、晃汰は水面下で幾度となく議論を重ねてきた構想を、実行に移そうと考える。それは、家を出て一人暮らしをする事だった。決して家庭環境が悪化したと言うありきたりな理由ではなく、二十歳も過ぎてそろそろ自立を自分自身で考えるようになった。だが、膨大な量の機材と車を置けるスペースも用意しなければと考えると、都内でも物件が限られてくるのが事実である。

 そんな時、今野から一つの打診があった。それは三、四期生が住むLLC借り上げのマンションに引っ越すと言う事である。その話を聞いて、晃汰は首を横に振る。メンバーと一つ屋根の下で暮らすなど言語道断だし、週刊誌が黙ってはいない。そんな懸念が頭の中を駆け巡ったから、晃汰は迂闊にYESとは言わなかった。

「それなら大丈夫」

 今野は決まって晃汰の反論を抑え込む。当人からしたら何の根拠もないその言葉が、心底信じられなかった。だがそこはLLCでトップを張る人間、対策をそっと今野は晃汰に耳打ちした。

「それなら安心ですね」

 贔屓球団が勝った時のファンみたいに、晃汰は掌をかえした。家賃光熱費水道代は全て事務所持ち、おまけにガレージと専用の防音室まで増築すると今野は約束した。そんな金があるならもう少し給料を上げて欲しいとは口が裂けても言えなかったが、晃汰は言われるがままに条件を今野に明かして新居の構想を練った。

 翌日から話は大きく進む。まずは建築会社の人間が、完成予想図を何枚か携えて事務所に訪れた。前日に晃汰が話した条件を全てクリアし、気の利いた αな設備も記載してきた。晃汰はこれ以上の物はないと首を縦に振り、その様子を見ていた今野も晃汰が納得できるのであればと、目の前の担当と握手を交わした。

 工事はすぐに始まった。部分的な工事の為に三、四期生の一時的な引越しはなく、更にはメンバー達へは耐震補強という大雑把な名目だけが伝えられていた。さりとて気にするメンバーもおらず、比較的に人がいる夜間は工事が終わる事も手伝って大事になることはなかった。その間、晃汰は自宅の荷物を整理するのに労力を要された。服や小物といった身の回り品はすぐにダンボール詰めにできたが、ギターやアンプなどの楽器類は結局のところ、専門の業者に委託する他なかった。素人の簡易な包装で大切な機材を傷つけてしまう訳にもいかず、晃汰はスマホで専門企業を探した。

 工事も無事に終わり、いよいよ晃汰が実家で過ごす最後の夜を迎えた。シェフが腕によりをかけた料理、しかも晃汰の好物ばかりが食卓に並び、それを家族が囲む。一家が揃うことなど滅多にないが、次男が家を出る最後の晩餐には決まって全員が顔を揃えた。だが、家を出ると言っても同じ都内に引っ越すだけで、帰ろうと思えば車で30分ほどで着いてしまう。本人も家族も執事の吉田も、そこまで悲観はしていなかった。

 翌朝の九時に晃汰は家を出た。二十数年間を過ごした家を出るというのはとても寂しかったが、今は新居での新しい生活に期待が膨らむ。まだ愛車が戻ってきていない為、竜恩寺が新居までの送迎を担う。とりあえず一人暮らしが板につくまで、三ヶ月は実家に帰らないというルールを晃汰は自身で決めた。親に泣き付くのだけはプライドが許さないし、自分よりも歳下がそれをやってのけてるところを見せられてしまえば、自然とそんな気になってしまった。

 新居までの車内は、実家を離れる晃汰に竜恩寺が気を遣って、殆ど会話がなかった。別に晃汰は何とも思ってはいなかったが、時として神経質になってしまう竜恩寺の性格が発揮されてしまったのだ。それが晃汰には心地が良かった。竜恩寺家の最上級車のメルセデス・Sセダンマイバッハの上質な空間は、生まれ育った実家への想いを馳せるには最適だった。自分の成長をずっと見守ってきた家を離れることは、本当はとても辛く寂しいものである。だがそれ以上に、晃汰は人間として一回り大きくなりたかった。故に周囲の反対を押し切って一人暮らしを決断したのだ。

 平日の渋滞もあり、予定よりも遅れて二人は新居に到着した。5階建てのマンションは、セキュリティも行き届いており、LLCの財力を物語っていた。既に引越し業者は晃汰の部屋に荷物を運び込んでおり、本人は邪魔をしないように部屋の片隅で搬入が終わるのを体育座りで待った。

 やがて搬入が終わると、続いてリストと荷物を照合して届き忘れなどがないかを確認する。これがなかなか厄介で、一人暮らしとは思えない量の荷物を発注した為、晃汰は自身で首を絞めることとなった。送迎役の竜恩寺の手も借りながら何とか終わらせたが、彼がいなかったらと考えると晃汰は身震いがしてならなかった。配送業者に用意していた缶コーヒーを手渡し、晃汰と竜恩寺は荷物だらけの部屋でひとまず腰を下ろした。

「こりゃ骨が折れるな」

 無造作に置かれた山のような段ボールに眼をやった竜恩寺は、他人事のように吐き捨てる。

「何言ってんだよ、焼肉奢ったるから手伝え」

 傍に置いてあった財布をチラつかせ、晃汰は竜恩寺を金で買おうと目論む。焼肉と聞いてしまえば、竜恩寺も動かないわけにはいかない。カップラーメンの昼食を終えると、本人よりも颯爽と竜恩寺は荷物をバラし始めた。竜恩寺は洋服や靴、雑貨といった身の回り品を、晃汰は隣の部屋を中でぶち抜いて行き来できるようにしたスタジオで機材の設置を同時並行で行う。

「この置物は何処に置く?」

「この写真は何処に飾る?」

「このポスターは何処に貼る?」

 作業中、幾度となく竜恩寺から晃汰に向けて質問が飛ぶ。手伝ってもらっている手前文句は言わないが、もう少し自分で考えて欲しいと晃汰は苦笑いを何度も浮かべた。それでも夕暮れ時には全ての段ボールを解体し、荷物を適当な位置に配置することができた。かなりの量と時間がかかった為に、二人は疲労困憊で焼肉に行く元気などなかった。約束は別の日に再調整となり、竜恩寺は送ってきた純白のメルセデスで帰っていった。一人部屋に残った晃汰は手持ち無沙汰になってしまい、とりあえずリビングのソファに腰を下ろした。実家暮らしでも一人で部屋に篭ることがあまり無く、いざ独りの時間が出来てしまうといてもたってもいられなくなってしまう。ソファに座ったはいいがやることがない為、iPadを持ち探索も兼ねてマンションの多目的スペースに向かった。

Zodiac ( 2020/07/03(金) 06:44 )