乃木坂46のスタッフ兼ギタリスト


















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C 東雲
二十六曲目 〜86×90〜
 完全復活を遂げたが、数ヶ月のブランクは予想以上に晃汰を苦しめる。最も影響を受けているのはギターの演奏で、とにかく左手の指が言う事を聞かず、意図した滑らかな動きとは程遠い。頭の中では押さえる場所を伝達してはいるが、指先がそこに辿り着かない事の方が多い。仕事の合間を見つけては、『インフルエンサー』を作る際に使ったきりのスパニッシュギターを抱えてリハビリを重ねた。全ては白石の卒業ソングの為に。

 そしてもう一つ、完全復活と引き換えに負った傷がまだ癒えていない。晃汰の愛車の86である。レースでフロント部分が大破した状態でガレージに収められている彼を、晃汰はどういう判断を下すのか迷いに迷っていた。

 直すにしても相当な金が必要なことぐらい、修理素人の晃汰にも分かるほどの壊れっぷりである。だが運悪いタイミングで、トヨタから伝説の名車・A80スープラの後継であるA90スープラが発売されてしまった。3ℓのツインターボは晃汰のみならず車付きの目を釘付けにし、BMW社との共同開発という謳い文句もインパクトが大きかった。そのせいか、価格もかなりのものだった。一千万には届かないものの、ミドルクラスの外車に相当する価格帯である。しかしその点においては、業界でも売れ筋の晃汰にとったらかき集めて出せるレベルだったし、それが余計に彼を苦しめた。

 86に変わって共用カーのメルセデスGLCクーペを、晃汰は毎日通勤として運転する。乗り心地、出力、装備、そしてルックス、全てにおいて86を圧倒するも晃汰はどこか府に落ちない。GLCのハンドルを握ってから一度たりとも、86のような高揚感や緊張感、そして一体感を得られたことがなかった。果たして、金額で86に釣り合うような車を手に入れる事ができるのか?晃汰は自問自答を繰り返すが、答えはいつだってNOだ。

 そんな一抹の不安を抱える折、先述のGLCでモデル組の送迎をしている。最大五人の乗車が可能なGLCに乗るようになり晃汰は常時、四・五人をいっぺんに輸送できるようになった。会社としたら大助かりで、ガソリン代としてはやけに高額な補助金を晃汰に支給していた。そのGLCで、雑誌撮影の為に松村、山下、梅澤、与田の四人を乗せて晃汰は都内を颯爽と走っていた。心は別に晴れやしないけど。

「紅い車じゃない晃汰さんって、なんかしっくり来ないなぁ…」

 目の前を過ぎていくビルを眺めながら、助手席に座る与田がボソッと呟いた。晃汰が白い車に乗るようになった訳を知っている他の三人は、慌てて彼女の口元を押さえて話題を逸らした。当然、与田の独り言は晃汰の耳にも入っていたが、三人が慌てふためく様子が視線の端に映った為に聞かなかったことにした。

 撮影スタジオに着いてしまえば、現地の先方スタッフと少しの打ち合わせをして晃汰の仕事は一旦の区切りを迎える。違う雑誌社が同じスタジオに集まるよう仕向けたのは、紛れもなく乃木坂側だった。その方が時間を効率的に使えるし、ガソリン代も最小に抑えられるといったデメリットがあり、それを汲んで上層部が雑誌各社に要請した。

 あくまで撮影は先方の仕事と割り切っている晃汰はブースに入ることはなく、決まってメンバー達の控え室で仕事をする。だが今日に限っては、公私兼用のiPadの電源を入れることはなく、トヨタ自動車のホームページとカーセンサーのアプリを行ったり来たりしている。お目当てはA90スープラである。近未来的なフロントマスクに400馬力に届きそうなエンジンは、晃汰の感性をくすぐるのにはもってこいだった。だが、ずっと彼の中にあった引っ掛かりが更に増幅する。それが車内での与田の一言だった。大破したから買い換えるという事に、晃汰は異常なほどの嫌悪感を抱いている。ちょうど骨折をしていた自分と壊れた真っ赤なマシンの姿とを照らし合わせ、境遇を重ねていた。怪我をしたら捨ててしまうというのは、自分のやってきた事を否定する事と変わらなかった。

「ふざけるなよ…」

 新しい車のページを見ていた自分に、無性に腹が立つ。たった一台の車を愛せずに、一人の女を愛せると言うのか。晃汰は勢いよく立ち上がると、いつものメカニック店へと電話をかけた。

「幾らかかってもいい、全部直してください」

 詳しい内容は明言を避けたが、想いはきちんと伝えた。たとえ修理費用がスープラより高くなっても、86を乗り続ける気でいる。暗くなったスマホを握る手とは反対の手を握りしめ、晃汰は椅子に座り直そうと振り返る。すると、背後に撮影を終えた面々がとびっきりの微笑みを携えて彼を見ていた。

「またあの紅い車、乗せてくださいね」

 まるで晃汰の決断を後押しするかのように、山下は眼を細めた。

「あぁ、また乗り心地の悪い車が"帰ってくる"ぜ」

 残りの連中も揃って、晃汰の返しに頷いていた。その事が、どんな事よりも晃汰にとったら嬉しかった。

Zodiac ( 2020/06/30(火) 19:07 )