二十曲目 〜井上、車を買う〜
「一緒に車を買いに行ってほしい」
井上のその一言が、全ての始まりだった。井上の実家で乗っている車のドアハンドルが取れてしまった事で買い替えを決意したものの、その方面に全く興味がない井上はどの車を買うべきなのか迷ってしまった。そこで、グループきっての車バカである晃汰に、プランを練ってもらうことにした。
「前まで乗ってたのがミニバンですから、次もミニバンの方が使い勝手がいいと思います」
まずはニーズ収集の為、晃汰は井上の実家にお邪魔した。そこで初めて両親と顔を合わせ、日頃から娘に世話になっている事を感謝してから本題に入る。農家を営む井上家は土地柄、広大な敷地と豊かな自然を有しており、都会で生まれて都会で育った晃汰には、緑の多さが何処か新鮮に感じられる。
「やっぱり家族で乗れる車が良いよね」
お茶を出す母が、井上に語りかけるように言った。前の車もミニバンだったんだろうな、晃汰は礼を言ってお茶を啜ると同時に、もう売り払ったという井上家の愛車を想像する。五人兄弟ということ、そしてドアハンドルが取れるまで乗り潰したことを考えると、数世代前のミニバンだろうと晃汰は踏んだ。
「ご希望のメーカーなどあれば。あとは、必ず欲しい装備とかオプションとか。…あとは失礼ですが、ご予算もお教えいただければ」
まるでその道の人のように、晃汰はメモ帳を片手に井上母に喰ってかかる。あまりにも熱意剥き出しな娘の同僚に最初は引いたが、乗ってきた彼の車を見て精通していると井上母は察した。次第に心を開いたのか、何故か思い出話を交えながら車の話をし始めた。話を聞く才能も併せ持った晃汰は、先ほどまでの熱苦しさは何処ぞで、湯呑みを傾けながら井上母の話を聞いた。
「それでは、行ってまいります。お邪魔しました」
じっくりと雑談に付き合った晃汰は、頃合いを見計らって井上と共に腰を上げた。話しすぎた事と壁時計の指す時間から、井上母も二人を引き止めることはなかく、娘とその同僚が乗る真っ赤なスポーツカーが見えなくなるまでその後ろ姿を見守った。
「ごめんね、お母さんが話しすぎちゃって」
エンジン音が響く車内で、井上は申し訳なさそうにさっきまでの母の対応を詫びる。テレビでは公表していない自身の幼少期のエピソードまで喋られたのは、彼女とってとても心外だった。
「そんな事ないですよ、さゆにゃんさんのマル秘エピソードも聞けましたからね」
弱みを握ったと言わんばかりに、晃汰は小さく胸を反らす。その瞬間、井上の目つきが鋭くなるのを彼は横目で見る。
「と言うのは嘘で、装備の事とか聞けて良かったです。そして、妹さんの事も…」
晃汰は気を遣って、語尾を濁した。デリケートな話題だけに、晃汰は細心の注意を払ってキッカケを井上に投げた。最も優先すべき最重要事項として、晃汰はその胸に刻み付けてはいる。
「公には言ってないけどね。何かの番組でチョロっと言ったぐらいかな…?」
対して井上は俯き気味だった顔を、涼しげに上げた。前しか見れない晃汰ではあるが、その表情が言葉から分かるようだった。それでも会話は一旦、そこで止まった。果たしてその先を訊いてもいいものなのか。晃汰は会話の糸口を躊躇う。
「生まれつき足が不自由で、それが原因で虐められてたんだ…だから私は、福祉系の大学に行くつもりだった。将来、妹は私が守るんだって」
「けど、そこで乃木坂に出会った」
晃汰は知り得る彼女の経歴を挟む。
「そう。元々芸能活動はしてたけど、やりたい事とかあったしね…」
きっとジェニック時代のことだろう。晃汰は後追いで知った、井上の水着姿を思い出した。常日頃から露出を嫌う発言を聞いていたし、それは他メンバーも既知のことだった。そして今の発言、裏側に“やりたくない事“をしっかりと孕んでいるのに気がついた。
「けど、そんなさゆにゃんさんと一緒に仕事ができて、良かったです」
これ以上彼女の闇を掘り下げてはいけない、本能的に感知すると晃汰は強引に締めくくった。
「大丈夫だよ、そんな気遣わなくて。乃木坂にいれたから、今の私があるんだし」
何枚も井上の方が上手だった、腹の内を突かれた晃汰は苦笑いをする他ない。
「当時を汚点だとは思ってない。あの時代があったからここまでこれた。でも、それを超える乃木坂っていう時代があったから、こんな私がここまで成長できたの」
惜しい人材だ。晃汰は改めて、アイドル界に浸透している卒業という風習を心底憎んだ。
埼玉の田舎町(住んでる人。すいません)から高速を飛ばして都心へと戻ってきた二人は、晃汰が86を買ったディーラーへと向かう。専属の販売員には既に話はしており、周りの客にバレぬように個室の商談スペースを晃汰の要望で用意してもらった。維持費が比較的安く済み、尚且つ実家の付近にディーラーがあることを前提に考えると、国産車を選ぶ事で井上と晃汰は考えをまとめた。晃汰としては様々なメーカーの車を物色して最適な一台を選びたかったが、品質やランニングコストを重要視した結果、頼れる国産メーカーに決めたのだ。
黒のデスクチェアに座る二人を待ち構えていたかのように、案内係の女性がドリンクメニューを持って個室に入ってきた。晃汰はアイスミルクティー、井上はカフェオレをそれぞれ頼んだ。それから時を待たずして、晃汰専属の販売員の岩田が数冊のカタログを携えて入室した。初めましての井上に対し、ゆっくりとした口調で挨拶をした岩田は、カタログと特別に作成した主要装備の比較表をテーブルに並べた。車のカタログを初めて見る井上の眼は少し緊張しているが、それでも隣に晃汰が座っている事で彼女はだいぶ気持ちが楽である。一人で車を買うなんぞ、自身にはできないことを彼女は分かっていた。
「当然ながら、車体が大きくなれば金額も上がります。そこは、井上様のご予算に合わせていただければ…」
30代に差し掛かろうとしている少し彫りの深い岩田は、比較表と井上とを見比べる。斜め前の晃汰は新型スープラのカタログに釘付けだが、そんな彼の目を盗んで強引な契約を勝ち取るなど、ここのディーラーにそんな販売員はいない。それを分かっているから、晃汰はすぐ隣で行われている熱い議論にも関与しない。
「これにする」
決定打はすぐに出された。その言葉を合図に晃汰はカタログを置くと、井上が指差すカタログを見た。
「いい選択です」
やっぱりな、晃汰は頷いた。大家族がゆったり乗れるという条件をクリアしたのは、トヨタの最上級ミニバンのアルファードだけだった。あとは実家の両親に相談してから、という流れを思い描いていた晃汰だったが、それは思わぬ形で裏切られる。
「今契約します」
実印、印鑑証明、車庫証明、そしてその他諸々が井上の目の前に広げられている。晃汰は一瞬、意味が分からなくなった。
「え?さゆにゃんさんが買うんですか?」
眼を丸くして尋ねてくる晃汰に、井上はさも当たり前かのように首を縦に振る。そしたバッグからは分厚い封筒が登場した。やっとここで晃汰は事態を理解した。この日を迎える前、井上から車を買うときに必要なものを聞かれた事を思い出した。
「あ…」
開いた口が塞がらない晃汰を他所に、井上と岩田は契約を進める。安全や便利機能に関するオプションは片っ端から搭載し、一方で見た目がヤンチャになる類のものは一切省いた。両親が乗る事を考え、また、井上自身ももそのようなものを好まなかった。
オプションも全て揃ったところで岩田は総額を計算しているが、そんな折に晃汰は口を挟む。
「86の車検を頼もうと思ってます。あと、携帯も新しいのに変えようかなと…」
はっと顔を上げた岩田に、晃汰は薄い眼を向ける。その眼にどんな言葉が詰まっているか、岩田は苦笑いをするしかなかった。
「総額がこちらになります」
印字されたての見積書を、岩田は二人の前に置く。晃汰が86を買った時と同じぐらいの値引きがしっかりとなされており、晃汰は満足げに何度も頷く。井上もあまりの値引き額に驚きはしたが、納得してハンコを押した。
「一つ質問があるんですけど」
ディーラーを出た時間が良い時間になってしまったため、二人は初めて二人っきりでディナーに向かう。その車内、晃汰は街路灯に照らされる井上に問う。
「あそこで納車して、誰が運転して実家まで行くんですか?」
井上は免許を持っていない。故に実家に帰る際の送迎は両親任せである。そんな彼女がどうして都心から新車を、埼玉の方外れまで運転できるというのか。
「え?そんなの決まってるじゃん」
嫌な予感はしていた。自身の買ったディーラーを紹介して欲しいというありがたい連絡が彼女からきた時、晃汰は心底嬉しかった。そこで見積もりを取って、実家近くの系列店で注文するのがオチだろうと踏んでいたが、やはり井上は何枚も上手だった。さて、どうしたものか…運転を苦にしない晃汰だが、新車となると話は違う。要は彼のプライドの問題であり、買った人物が一番最初に乗り出すのが美学と思っている。それを壊していいのだろうか、葛藤は続く。
「私は運転できないし、お母さんたちをこっちに呼ぶわけにもいかないでしょ?」
ご最もなご意見である。これは今夜のディナー代だけでは割りに合わない。晃汰は勝ち誇ったかのような表情で、助手席に座る井上に横目をやる。見た目は天使だが中身は…な美少女が、不敵な笑みを浮かべている。最後の花向けとすれば良いかな、晃汰は自身で腹落ちさせ、予約した行きつけの店へとアクセルを踏み込んだ。