上手に世の中渡れて良いゼ
乃木坂が始まって10年と言う節目を迎え、その日を厳かに祝う為に用意された二日間のバースデーライヴ、所謂“バスラ“。今回も晃汰は音楽的立ち位置と演出的立ち位置におり、眼と耳で客席を圧倒する使命を全うする。
三ヶ月前から全体リハーサルは、都内の大きなスタジオでスタートした。10年という年月を表現するにはいつものライヴのようにはいかない、晃汰はもっとスペシャルな演出を常に考えていた。
「え…?」
その思惑が自分の予期せぬ方向に動き出したのは、リハーサル初日を終えた頃だった。
「バスラにOG達をたくさん呼ぶ」
電話の向こうの徳長の声は、いつにも増して元気だった。彼を含む首脳陣は少なくとも、OGの再集結でライヴが更に盛り上がると踏んでいるのだろう。
「わかりました」
晃汰は乾いた返事だけを返すと、すぐに通話を終わらせて椅子にふんぞり返った。貸切のリハーサルスタジオに外部の人間が入ってくる事はないから晃汰は少しの間、天井を目線だけを行ったり来たりさせる。
いまの乃木坂があるのは、卒業していったOG達が築いてくれたおかげ。その伝説(レジェンド)たちを崇拝し大切に扱うのはわかる。だが、現行・乃木坂のライヴに呼ぶ必要は無い…
晃汰は運営とのズレを直感した。ステージに彼女らが上がるまで最重要秘密事項(トップシークレット)であると付け加えられたが、そんな事は晃汰には関係がなかった。まるでOG達を呼ぶ為にバスラを開催するよう、彼には思えて仕方がなかった。
「帰るか…」
思い立ったかのように晃汰はわずかな荷物を手に、打ち合わせブースを出た。寮に帰るのだ。
「あ!」
「あ…」
廊下の曲がり角で偶然に、山下と晃汰は顔を合わせた。
「お帰りですか?」
新調したブランドバッグを手にし、山下は尋ねる。
「そんな感じ。…乗ってくか?」
悩んでいる事を察して欲しくなかったから、晃汰は彼女に眼を合わせない。それでもどこか、気が紛れる“何か“が欲しかった。子どものように大きく頷いた彼女を連れ、駐車場へと向かった。
◇
「なんか、浮かない顔してますね」
都会の煌びやかな街灯とは裏腹に、ステアリングを握る晃汰の顔は曇っている。それを勘付いて山下はマシンが動き出すや否や、ドライバーを覗き込んだ。
「そんな風に見えるか?」
OG達直属の後輩である山下に、彼女たちに対して抱えている愚痴を言うわけにはいかない。第一、既に決まってしまっている事に何か意を唱えようとするのが、自分自身としてやりたくない事だった。
「顔に書いてありますよ。それだし、晃汰さんがBOØWYとか布袋さん聴かないのって、今までなかったですもん」
Silenceな夜の街が二人を包んでいた事に気がついた晃汰は、よほど自分が考え込んでいる事を改めて思い知らされた。
「凄えな、お前さん…なんかソッチの道に進んだ方が、良かったんじゃねえか?」
「こう見えて、臨床心理士になりたかったんです」
得意げに胸を叩く山下を視線の端に置く晃汰は、二人きりになってから初めて口元を緩めた。
「…ダセェな、俺って」
苦笑いで晃汰は吐き捨てた。森保に心の病を治してもらう前に、どうやら助手席の同僚に治療をしてもらうようになるだろう。彼は山下を一瞬だけチラリと見た。
「何ですか?」
いつもヘラヘラしている山下は、こういう時には決まって真剣な顔をする。
「いや、お腹空いたなって思って」
晃汰の左手がシフトノブに伸びる。
「私もです。何か作ってください」
両手の指だけを合わせるようなポーズで、山下はドライバーに懇願する。
「いいぜ、ワインに合うやつがいいな」
目的地が変更され、行きつけの近所のスーパーに寄ってから、二人は寮へと戻った。
◇
風呂に入ってどスッピンになった山下が、鍋を振る晃汰を横目に部屋に入ってきた。
「早かったな、魔法を解いてくるの」
塩胡椒で僅かに視線を山下に送ると、晃汰は冴えないジョークを飛ばした。
「元々、化粧は薄い方なので。…何か手伝いますよ」
荷物を置いた山下は、スウェットの腕をまくりながらキッチンに近づく。
「じゃあ、コレとアレを味見して、良かったらテーブルに運んで」
入浴していた数十分の時間で用意された料理を見て、山下は改めて晃汰の腕前に恐れ入った。
「味見はしません。初めて食べる衝撃を味わいたいので」
晃汰の手料理を何度も食べてきたが、口に合わなかったことなど一度もない。山下は確信して料理をテーブルへと運んだ。
晃汰は白ワイン、山下は頂き物の缶ビールで乾杯をした。テーブルには山下の嗜好を熟知した晃汰による手料理が、所狭しと置かれている。
「アイドルなんだから、嗜む程度にしとけよな」
殆ど一気飲みで缶を空ける山下を見て、晃汰は心配そうに彼女を覗き込む。
「えぇ?大丈夫ですよこれくらい」
氷詰めのボウルから二つ目の缶を取り出す山下は、彼のそんな忠告はお構いなしだった。三回ほど喉を鳴らすと、ピリ辛に炒めたニンニクに箸を伸ばす。
「で」
今の今まで笑顔のアイドルは、突如として鋭くさせた眼をギタリストに向ける。
「何か悩みがあるんですよね?」
すっかり忘れていると思ったのに、山下は覚えていた。デリケートなOGの問題を彼女なんかに話せるわけもなく、晃汰は話を逸らす作戦をとった。
「あぁ、髪型を変えようか迷っててね」