わがままジュリエット
「珍しいな、お前さんからドライヴに誘ってくるなんて」
真夜中の首都高を駆け抜ける紅いマシンの中で、晃汰は少しカンを働かせながらステアリングを握る。
「うん、ちょっと風を感じたくなったの」
才女の模範的な答えが返ってくるが、それ以上を晃汰は求めない。何か絶対に開けてはいけないパンドラの箱が、すぐそこに迫っているような気がして彼はならなかった。
週末深夜の大黒埠頭PAは、数多ものマシンが所狭しと鼻を並べ、ひとつのモーターショーのようになっている。その隅っこの方に86を停め、二人ともにマスクと山崎は伊達メガネで変装した。
「ひなちま(樋口)がバイクの免許取って、羨ましいな〜って思ってさ。全然知らないけど好きなんだよね、車とかバイク」
辺りをキョロキョロと見渡す山崎は、晃汰に聞こえるくらいの声で訴える。
「前にインスタ載せてたね、SV650。俺は車はトヨタ、バイクはYAMAHAって決めてるから」
長くなった前髪をかき上げた晃汰は、答えながらお眼鏡にかなうマシンを探す。
「晃汰は、いつから車とか好きになったの?」
隣を歩く山崎が近づく。
「物心ついた時かな。気づいたら、トミカでばっかり遊んでたよ」
知らんふりをして、晃汰は歩みを止めない。変装をしているとは言え、あまりベタベタと近づくのは避けたかった。
「お、ハチマルとキュウマル(80スープラと90スープラの事)だ。あっちはLC(LEXUS ・LC500)がいるね」
憧れの名車が続々と現れ、晃汰のボルテージが分かりやすくブチ上がる。その後ろを興味津々な山崎が追う。
「あ、見て。あのバイクかっこいい」
晃汰の腕を引っ張ると、山崎はお目当てのバイクを小さく指差した。
「あれはカワサキのニンジャだよ。たぶん400だろ」
「ふ〜ん。じゃあ、あのバイクは?」
「あれはYAMAHAのYZF。俺が次に狙ってるやつ」
「じゃあ、あの『藤原とうふ店』って書いてある車は?」
「あれはトレノAE86。たぶん、日本車の中で一番有名な車」
たまらないね、と晃汰は付け加えた。
「歩くカーカタログだね」
山崎は口元に手を当てて笑う。
「お前さんぐらいだよ、こんなのに付き合ってくれるの」
変人だよ、晃汰は親しみを込めて山崎に言い放った。
「で」
マシンに乗り込みコンビニで買ったカフェオレを一口飲むと、晃汰は真っ直ぐに助手席の山崎を見つめた。
「何か“はなし“があるんだろ…?」
できればカンが外れて欲しいと晃汰は思った。
「もう、お察しなんでしょ?」
顔をあげて晃汰を見る山崎の眼には、涙が滲んでいた。
「卒業しなきゃいいじゃん、泣くくらいなら」
カンは外さなかった。本当はそんな厳しい言葉をかける気なんて微塵もなかったが、同級生が一人減ってしまう寂しさと、どうしても卒業を撤回してほしいというせめてもの思いが募った。
「なんでさ…寂しいぜ」
顔を覆った両手の中で、晃汰は弱々しく嘆く。涙が溢れて頬と指を伝って口に入り、しょっぽさと共に彼女との思い出が脳裏を駆け巡る。
「日産(10th)が終わってから、公表するつもり。で、7/17のミーグリで最後。晃汰風に言うと、それが私のLAST GIGSだから」
「それじゃお前…」
卒業ライヴはできないし、彼女はそれを望んでいない。一瞬にして山崎の意図する事が読み取れてしまったから、晃汰は余計に切なくなった。
「ごめんね、わがままで…」
涙が頬を伝うというのに、山崎は笑っていた。
「もう、腹は決めたんだな」
ティッシュで拭いたばかりの眼は、しっかりと微笑む山崎を捉えた。諦めと微かな希望が同居した眼をだ。
「うん、やり残したことはないよ」
彼女は眼を細めて笑った。
「そっか…」
それ以上の言葉は続かなかった。
数少ない同級生が減ってしまう。クイズ番組や乃木坂外での仕事で奮闘する彼女は、これからもきっと乃木坂の肩書きを外さずに活動していくものだと思っていた。決して選抜に選ばれなくても…
「選抜に選ばれないから、か…?」
選抜メンバーの選考に口を出せるほど、晃汰は権限を持っていない。それでも、同級生を含んだ連中の不遇な扱いを見ていると、どうして名前を呼ばれないのかが不思議でならなかった。
「そんな事じゃないよ。ただ、昔みたいにライヴに100パー(%)入れ込めなくなってきちゃって…常にラジオの事とかクイズの事とかが頭にあって、これはファンの皆さんにも周りにも悪影響だなって」
山崎は微かに笑みを浮かべる。
「笑顔で手振って、送り出す気にはなれねぇかもしれない。同級生って、特別だから…」
おめでとうとは言いたくない、共に戦ってきた同い年の戦友が去って行くのを手放しで喜べるはずがない。
「それでいいよ。でも、こんなわがままな私を許してね」
ニコッと微笑む山崎を、晃汰は優しく撫でた。サラサラな栗色の髪は森保を彷彿とさせ、きっと彼女にも相当な覚悟があって卒業を決意したのだと、改めて彼は実感した。
それから二人は夜が明けるまで、紅いマシンに乗って非日常的なドライヴを楽しんだ。乃木坂のこと、昔のこと、未来のことを生き継ぐ間も無く話し明かした。
「アイドルとして出会ってなかったら、たぶん私は晃汰に告白してたと思う」
視線の端でも、山崎が悪戯っぽく笑うのがわかる。
「あえて俺からは何も言わないけど、“ありがとう“とだけ言っておくよ」
好意を寄せられるのは嫌いでは無いが、森保という圧倒的な存在がいるから晃汰は、いつだってそういった話題をはぐらかす。
「で、まどかさんとは上手くやってんの?」
山崎は山崎で、同級生の恋路が密かに気になっている。
「上手くやってんのかな?やっぱり数ヶ月に一回しか会えないんだけどね。でも、そろそろ良い年だし身を固めたいよ」
「それ、私の前で言う?」
険しい表情を作って見せたが、我慢できずに満面の笑みが溢れ、晃汰もつられて笑顔になる。
「卒業してから結婚してる人、少ないもんな。美彩先輩(衛藤、現・源田)くらいか、結婚してるの」
オフの前の日には飲みに連れて行ってくれる源田選手の、奥様を晃汰は思い浮かべる。
「そうだね。あとは畠中さん。晃汰は面識ないよね?」
「うん、入った頃にはもういなかった」
晃汰はネットでしか拝見したことのない名前を思い浮かべた。入った頃はちょうど絶頂期を迎えていたから、礎を作った初期のメンバー達を彼が知ることはない。
「そっか。…懐かしいな、晃汰が入った頃。AKBさんから凄い人が来るって、大騒ぎしてたんだよ?」
「そんなに買い被られても困るんだよな」
「私達と同級生だって聞いて正直、不安だった。仲良くなれるのかなって」
「まあ、今でも仲良くないしね」
晃汰は真剣な顔のまま、冗談を言う。
「そうだね、真っ先に卒業伝えるぐらいに仲悪いからね」
手を口元にやって上品に笑う山崎の横顔は、真夜中だと言うのに晃汰には眩しく見えた。
「卒業してすぐに、お泊まり愛とかやめてくれよ」
「今の今まで彼氏できた事ない私に、何を求めてるのよ」
「…かっこいいよ、お前さんの生き方」
そこで会話は一旦止まった。感嘆するかのような晃汰の口調に、山崎が返答を自重したからだ。
彼女が選抜に呼ばれた事はない。待てど暮らせどアンダー、表題曲のメンバーにクレジットされた事などない。それでも山崎は、“独自“の仕事を増やした。クイズにラジオ、執筆といった王道アイドルとは一味違う、オリジナリティを重視した仕事だ。
そんな同級生を間近で晃汰は見ていたから、尚のこと彼女の努力が報われてほしいと思っていた。他にも何故、選抜に呼ばれないのか不思議なメンバーが多数いるが、彼女だけは同級生という色眼鏡も手伝って特別に見えた。
「選抜だけが、乃木坂じゃないから。少なくとも、晃汰が来てからそう思えるようになった」
随所でアンダーを重んじる発言を繰り返してきた晃汰にとって、当のアンダーである山崎からのその言葉はとても嬉しかった。
「そんなお前さんを見ているから、後輩のアンダー達だって誰一人腐る事なく、お前さんの後を追っかけてるじゃねえか」
アンダーにももっと陽が当たるように。そんな思いで晃汰は毎回、曲を作り続けている。
太陽が顔を出し始め、晃汰は山崎の住むマンションにステアリングを切った。
「朝帰りだね」
とうとう一睡もしなかった山崎は、悪戯な笑顔をドライバーに向けた。
「あぁ、文字通りのな。寝れる時間はあんのか?」
「数時間はね。すぐにラジオの収録だから」
当たり前のように口にするが、並大抵の人にできることではない。晃汰は心底、彼女を失う事を後悔した。
「じゃあ、また後で」
「うん、ありがとね」
マンションから少し離れた人目のないところで、晃汰は山崎をおろした。文字通りの朝帰りだったから、いつもよりもその辺の配慮はした。
部屋に戻った山崎はベッドに倒れ込んだ。平生を装ってはいたが、晃汰との時間の中で何度も卒業への決心が揺らいだ。山崎もまた、晃汰に惚れていたのだ。
「決めた事だし…」
独り言を呟くと、うつ伏せのままスマホを手にした。別れ際に撮った晃汰とのツーショットを見返すが、そのどれもがピントはずれだった。
「ピントはずれの…」
晃汰の車の中で何回か聞いたフレーズを呟き、山崎は再び顔を枕に埋めた。まだ少し、晃汰の香水の匂いを鼻が覚えている。深呼吸を一つして、彼女は束の間の夢に堕ちていった。