アイス・ブレイク
「緊張してんのか?」
サイドブレーキとコンソールを隔てた向こうで固まっている遠藤に、前を見たまま晃汰は声をかけた。
「はい…」
いつにも増して弱々しい声が遠藤から飛んでくる。
「俺も初めて会う人だからなぁ…」
独り言のように晃汰も呟く。なおも晃汰は待ち合わせ場所の音楽スタジオへと、アクセルを踏んだ。
「初めまして!君が丸山くんね?」
ホテイ伝いに紹介してもらった歌の先生は、PERSONZのJILLだった。持ち前の明るい挨拶で、緊張だらけの二人を出迎えた。
「初めまして。ずっと前から、お会いしてみたかったんです」
差し伸べられた右手に、晃汰はギタリストでもスタッフでもない輝いた眼をしながら応えた。エフェクティヴな本田毅のギターに乗っかる力強い女声ボーカルは、和製シンディ・ローパーと言った所だろうか。長いこと本田毅が氷室のサポートギタリストを務めていた事も手伝って、晃汰は4人のビートに自ら堕ちていた。
「そして、この子が…?」
「はい。“問題児“の遠藤です」
晃汰は隣に立つ遠藤を、JILLに紹介した。
「初めまして。乃木坂46・4期生の遠藤さくらです」
長い腕を前面に添わせ、遠藤は先生に最敬礼をする。
「じゃあ、男子は外にいてもらおうかな」
JILLは晃汰にウインクをした。
「わかりました。じゃあ遠藤、頑張ってな」
そう言ってスタジオの外に出た晃汰は、そのまま建物を出て手頃なカフェに入った。溜まっていた仕事もあったから、彼はブラックコーヒーを片手にiPadを開いた。初めて来る個人経営のカフェだったが、モノトーンに仕上げられた店内とクラシカルなBGMが手伝って、晃汰は仕事に集中することができた。
時間にして小一時間だったが、遠藤からの連絡があって初めて晃汰は時計を見た。外は既に真っ暗になっていて、晃汰は急いで荷物を片付けてお会計をした。
「良い子にしてましたか?」
まるで保育園のお迎えに来たような口ぶりで、晃汰は熱くなったスタジオに入った。遠藤は汗ばんだ額に前髪を貼り付けて、息を弾ませている。
「収録まで、定期的にレッスンしましょう。大丈夫、良い声してるよ」
JILLは遠藤にはにかんで見せた。それだけで晃汰はなんとも言えない安堵感に包まれ、とりあえずの問題に目処が立ったような気がした。
◇
それから遠藤はJILLとともに、何度も何度もレッスンを重ねた。初めての筋トレにも取り組んだ彼女の声は、日に日に力強くなっていった。高音域が苦手な部分は曲自体のキーを下げる事で回避し、遠藤の得意な帯域で勝負をかけることにした。晃汰も毎晩ギターを触り、遠藤の晴れ舞台を最高のものにしようと努力を重ねた。
そしていよいよ、本番の朝を迎えた。収録は午後からだが、晃汰と遠藤はそれ以外に仕事を入れないように配慮してもらった。一曲に集中したい、二人の思いは同じだった。
いつもよりも遅い時間に遠藤は目覚めた。晃汰の言いつけを守って夜更かしはしなかったが、数時間も遅いアラームの音に起こされてベッドから出た。とりあえず顔を洗って歯を磨くと、日課としている白湯を飲んだ。腸内環境の向上を目的として行なってきたのだが、喉を温める事も手伝って、彼女は初レッスン以降も実践してきた。
何をする訳でもない時間を過ごした遠藤は、今度はしっかりとメイクをして他所行きの格好になると、部屋の鍵を閉めて晃汰の部屋に向かった。彼との待ち合わせの時間である。
「来たか。行こう」
ネイビーのスーツに黒地白玉のシャツを合わせた晃汰が、一本の廊下の向こうにあるリビングに立っていた。ギターケースと手荷物を持ち上げて廊下を通り、玄関でリーガルを履く。これもホテイを意識した、リップのように真っ赤な靴だ。
「鍵はいいんですか?」
遠藤は施錠がされていない晃汰の部屋を指差す。
「いいよ、誰か勝手に入ってくるから。どうせ帰ってくる頃には、美波や美月が蔓延ってるよ」
振り返らずに晃汰は答え、そのままエレベーターに歩を進める。
二人を乗せたマシンは順調に都心を飛ばして、無事に収録スタジオに到着した。晃汰が受付を済ませると、二人は控え室に入った。それから程なくして担当者が彼女たちを訪ねてきて、簡単な打ち合わせを行なった。
「リハまで30分、本番まで1時間か」
晃汰は中古のロレックスに眼をやる。
「緊張してますか?」
遠藤はマスクで殆ど覆われた顔をギタリストに向けた。
「ちょびっとな。お前さんに比べりゃアレだけど」
かぶりを振ると、晃汰は温かいココアを淹れた。遠藤は白湯を要求したから、彼は二つの紙コップを持ってパイプ椅子に腰掛けた。
「自分を大きく見せようとするな、今の自分を見ろ。恐るよりも楽しめ。俺がお前さんに言えるのはそれだけだ」
そう言うと、晃汰はココアを何度も息で冷まし始めた。遠藤も晃汰ほどではないが、白湯を冷ましてから飲んだ。緊張という名の氷を溶かすように、身体の隅々にまで白湯が染み渡るのを遠藤は感じていた。