乃木坂46のスタッフ兼ギタリスト













小説トップ
12 フィンガークロス
??曲目
「卒業しようと思うの」

 何の躊躇いもなしに、東京から数時間かけて駆けつけた彼氏に森保は思いの丈を言い放つ。用意されたカフェオレにも口をつけなかった晃汰は、彼女の眼をジッと見つめる。

「卒業後の事は、まだ何も決めてないし考えてない。でも、もうお仕事としてピアノは弾きたくないの。趣味として、のびのびやりたいかなって」

 ベッドの端に座る森保は、床のクッションに身を委ねる晃汰を見下ろす。マグカップの中身はまだ減ってはいない。

「咲良と奈子が戻ってきてくれるから、安心だなって。咲良も卒業しちゃうけど…膝の調子も良くならないし、潮時かなって」

 自分の思いは全部言えた。森保は大きく息を吐くと、ローテーブルにのったお気に入りのマグカップを手に取った。温かいミルクティーを淹れたはずなのに、すっかりぬるくなっていた。

「そっか…」

 それから暫くの間、晃汰は言葉が続かなかった。数多もの卒業生を目の当たりにしてきたと言うのに、一番大事な時に気の利いたヒトコトが出てこない。

「今夜話したかったのは、それだけなんだ」

 話の主導権を、森保は晃汰に渡した。彼がどんな反応を示してくれるのか、森保はそれが一番気になっている。果たして反対なのか賛同なのか、遠くの地で快進撃を続ける彼氏の本音を聞きたかった。

 カップの縁を人差し指で何度も辿っていた晃汰は、スッと立ち上がると腰掛けている森保を包み込んだ。

「よく頑張ったな」

 なんて事はない一言だったが、森保は他のどんな言葉よりも嬉しかった。止めどなく涙が溢れ、晃汰の胸をグシャグシャに濡らす。嗚咽をも掻き消すかのように、晃汰は泣きじゃくる森保を強く、強く抱きしめ続ける。

 森保の10年を言うなれば、報われない10年だった。

 165cmの長身をはじめとするスタイルに目鼻立ちが整った顔、そして全国大会入賞のピアノの腕前。ポテンシャルは他のどのHKTメンバーをも凌駕していた。
 だが実際は泣かず飛ばずだった。ちょこちょことターニングポイントを迎えたが、そのどれもが中途半端な結果で終わり、彼女の人気に火を付けることはなかった。 
 そして足の怪我。一時は自立歩行が困難になるほどの負傷で、その時に森保は卒業を強く意識した。誰にも言わず、ただ独りで。

「晃汰の記憶が戻って決心がついたの。私は私の生き方をしようって。だからピアノをお金にしたくないし、無理に怪我を押してまで踊る必要もないなって」

 この人にだけは話しておかなければならない、森保は晃汰の胸の中でポツリポツリと、自身の心情を話した。晃汰はただ黙って、彼女の頭を撫でながら聞いた。
 
「仕事はどうすんだ?お前さんの美貌なら、モデルの一つや二つ…」

 容易く舞い込んでくるものだと楽観視しているがその反面、もう水着などの露出を控えてほしいと思っている。アイドルと付き合うと言う事を重々理解していたがそれでもやはり、彼女が布一枚だけになって笑っている写真を見ると、どうしても晃汰の胸はチリチリと焦げた。

「事務所には今のところ残るつもり。でも、結婚はなるはやでしたい」

 すっかり涙が乾いて落ち着いた森保は、身体を離して晃汰の眼を見つめる。その視線が何を意味するのか、晃汰は嫌でも察しがついた。

「かと言って同棲はしたくないし、すぐに交際宣言もできねぇしなぁ」
 
 アノ人達は何ヶ月で宣言したっけなぁ、晃汰はプロ野球選手と酒グルイの二人を思い浮かべた。

「そんなの分かってるよ。大丈夫、全然焦ってないから」

 そう言って、森保は晃汰の頬にKISSをした。いつもならここで反撃に転じている晃汰だったが、今夜ばかりは彼女を押し倒す気にはなれなかった。ここで彼女を抱いてしまったら何かが狂ってしまう、もう何度も一つになっていると言うのに今夜こそ晃汰は、一線を越えられなかった。そしていよいよ現実味を帯びてきた結婚の二文字、こんなにも早く機が訪れようとは考えていなかった。期待と不安が入り混じりながらも、最愛の森保のとなりで晃汰は夜を明かした。



 脚の状態も万全に整えて臨んだ公演、閉演間際に森保はいつにも増して清々しい微笑みで、卒業を宣言した。彼女らしく涙のひとつも見せないほど落ち着き、微笑みながら。本人よりも周りのメンバーが眼を赤くしているのは、彼女の人当たりの良さが物語っていた。おかげで最後の挨拶を担当した田中美久は、声を詰まらせながら客席に頭を下げた。
 終わりの始まり、森保は戦った10年間を振り返るにはまだ早いと自分を戒めてステージを下りた。既に最後のフォトブックの発売や数々のインタビュー、取材も決まっている。アイドル史に少しでも爪痕を残す為、彼女は最後の最後まで足掻こうと決意した。


 予想通りにトレンドに彼女の名前が並ぶのを見届けて、ミーティングルームの長机に晃汰はスマホを置いた。分かっていた結末だけれども、何かを失ってしまった感覚が全身を襲う。“アイドル“の森保に恋をしていたつもりはない。ましてやその肩書きが無くなった事によって、今まで我慢してきたあらゆる事が合法になる。だけれども、晃汰は何処か吹っ切れなかった。

「晃汰…」

 ちょうどそこへ整備士役の松村が、いつになく神妙な面持ちで会議室の扉を開けた。語気と表情からするに、森保の事を知っているのだと晃汰は察した。

「ノーコメントで」

 半分は洒落のつもりだったが、本当は誰にも励ましの言葉をかけて欲しくない。

「じゃあ、違う話題がええな」

 ニッコリと笑うと松村は、晃汰の隣の席に腰を下ろし、おまけに彼を回転させて自身の方に向かせた。呑みの誘いだろうとたかを括っていた晃汰だったが、松村の顔には笑顔が消えている。

「あんな、まちゅな?卒業しようと思う」

 何故こうも人は卒業をしたがるのか。卒業するのは男だけで良いのではないだろうか。晃汰はこぞって宣言していく奴等の気が知れなかった。けれどもそれは仕方がない事なのだと、半ば諦めている自分もいる。向き合っていかなくてはと思っていた矢先の奇襲攻撃。既に映像はスローモーションになり始めていて、アノ時と同じ降下感が身体全体を包み込む。

 あ、また記憶を喪う。

 そう思った時にはもう遅かった。床にぶつかる感覚がする前に、晃汰は気を失って椅子ごと崩れ落ちた。転がり出せば楽しくてたまらないはずなのに。

■筆者メッセージ
時間軸は限りなく現実と近づけてはいますが、多少なりとも前後しちゃいますね。そして、これから頂く感想には極力お応えしていきたいとおもいます。
Zodiac ( 2021/06/13(日) 22:49 )