五十七曲目 〜シラケちまうぜ〜
分厚い扉を越えると、肌よりも先に耳が密閉感を感じとる。まるで飛行機にでも乗ったような鼓膜の閉塞感はリハーサルスタジオに入る時、晃汰の一つの楽しみになっている。
「またギターを一本入れたんだよ」
そう言ってハードケースから真新しいギターを取り出す晃汰の表情は、オモチャを手にした子どものようだった。
「へぇ、今度は何を?」
指示出しの空いた時間を縫って親友と戯れている竜恩寺は、瞳を輝かせる晃汰に問う。
「ゼマイティスのメタルフロントだ」
右手に握られたギターを見て、竜恩寺はピンと来た。またも敬愛する布袋氏が使用しているモデルを晃汰は買い漁ったのだ。
「幾らしたんだよ?今度も高かったろうに」
所謂レスポールタイプのギター前面には、彫金がなされた一枚もののメタルが貼られていて、素人でも眼を惹く奇抜でエレガントな雰囲気を醸し出す。
「タダだよ。しかもほら、裏見てみな?」
言われるがままにギターの裏面を覗き込むと、竜恩寺は眼を丸くした。
「譲って貰ったんだ、本人に」
晃汰が大好きなギタリスト、布袋寅泰のサインが白のマジックで書かれていたのだ。前々から彼が布袋と親交があるのは知っていたが、まさかここまでになるとは親友の竜恩寺でさえも予想していなかった。
「誰にも何にも言ってない。勿論SNSだって」
本当の宝物を手に入れた時、晃汰は進んで誰かに話したりSNSに載せたりすることをしない。今回もその通りで、何の前触れもなく空輸便で送られてきた大きな箱の中身を、晃汰は飛び上がって喜んだ。
「良かったじゃん、弾き甲斐がありそうだな」
「あぁ、これでサウンドのバリエーションが増えるよ」
ギターに疎いメンバー達でも、晃汰が新しいギターを肩に提げているのはすぐに分かった。白黒の布袋モデルにも負けず劣らない奇抜な色調が、嫌でも眼に飛び込んでくる。
「かっこいいでしょ」
メンバーから話題を振られる度、晃汰は鼻の下を伸ばした。
乃木坂46を支えてきたエースの卒業公演ともあってメンバー、演者ともにリハーサルに熱が入る。白石の晴れ舞台を汚す事はあってはならない、その一念が全ての人間に浸透していた。
「技術よりも感情を剥き出しにして、頭の中が空っぽになるくらい叫べ」
凡そアイドルに似つかわしくない歌い方を指示する晃汰ではあるが、その意図をメンバー達は手に取るようにわかっている。元来アイドル的可愛さに長けた連中が、汗に塗れて声を張り上げればそれがより際立つ。
彼がギタリストとして乃木坂46に加入して以降、グループのライヴに対する評価は丸っきり変わった。
「ファンはCD音源を聴きに来ている訳じゃない、どんなに下手くそだって君らの生の声を聴きに来ているんだ」
CD音源を大音量で流してそれに合わせて歌うフリをする所謂“口パク“を、晃汰は徹底敵に嫌う。それはAKBに在籍していた頃からで、楽器も歌声も全て生という事に異常なほど拘っている。
「前から思ってんですけど、なんでそこまで生歌とかに拘るんですか?」
午前のリハーサルを終えてケータリングの昼食をとるなか、山下は前から気になっていた事を本人に尋ねた。
「だって、せっかくデカい箱でやってるのにCDに合わせて口パクするの、楽しいか?テレビで可愛い事してるだけがアイドルじゃないと思うし、それに追従してるだけのギタリストじゃねぇんだよって」
晃汰はそう言って煮魚を箸で口に持っていく。最近は肉よりも魚を好むようになってきた。
「でも私、歌上手くない…」
「うん、知ってる」
俯き気味な山下をお構いなしに、晃汰はあっけらかんと返答をする。事実であるが少しのフォローを期待した山下は、キッと晃汰を睨みつける。
「そんな顔すんな、可愛い顔が台無しだぞ」
チラリと山下の表情を見てから、晃汰は眼を瞑って再び魚をつつく。飴と鞭を上手い事使われた当の山下は、嬉しさから来るニヤケを抑えきれずにだらしなく頬を緩めた。
「前言撤回、アホみたいな顔だな」
山下は晃汰に猫パンチを喰らわせた。
「なんかギターの音、変わった?」
ランチを共にした山下と分かれた後、晃汰は白石に呼び止められて缶コーヒーを奢ってもらった。
「うん、変えた。よく分かったな?」
珍しくブラックの缶コーヒーを啜りながら、晃汰は白石の眼を見る。
「なんか違うなって。ギター変えたから?」
真新しい銀色のギターを抱えていた晃汰の姿を、白石は思い出した。
「ギター変えたのもあるけど、システムを変更したんだ。今までみたく広がる音じゃなく、ジャキっとシャープな音にしてみた」
エフェクターのあれこれを話したところで、白石には分からない。晃汰は素人でも分かるような言葉に言い換え、自分が行った転換を説明する。
「そうだよね!なんかクッキリした気がしたんだ!」
他人のギターの事で眼を輝かせる白石の気持ちは分からなかったが、嫌な気はしなかったから晃汰は彼女の頭をそっと撫で、その場を後にした。
ここ最近の晃汰の身体は、白石の笑顔を見ると何かが込み上げてくるようになってしまっていた。
午後のリハーサルは、午前中に表れた修正点に対してこれでもかと反復練習が繰り返された。本番では楽しむ事を重視している晃汰は、リハーサルでは一切の妥協を許さない。それが彼のポリシーであり、美学である。それに呼応するかのようにメンバーはおろか、バンド組も根を上げることなく音楽監督に食らい付く。
夕方に全体リハーサルが終わると、程なくして晃汰のソロリハーサルが始まる。リハーサル期間に入ると深夜帯の仕事を避けてもらう為、晃汰は何も考えずに自身の音と向き合う事ができる。
いつものように自分の音だけを抜いた日中のリハーサル音源をスピーカーから流し、それに合わせてギターを重ねていく。テイク毎に違うギターソロや、不意を突くトリッキーな効果音を折り混ぜながらひたすらにセットリストを消化していく。
「…気に食わん」
誰もいないスタジオで晃汰は独り言を吐き捨てると、肩からギターを外して丸椅子に腰を下ろした。
自分が思い描くメロディが上手く指に伝わらず、イメージとはかけ離れた音が不本意に流れる。それが晃汰にとっては苦痛だった。
「こんなんじゃ、卒業ライヴなんかに出ない方がいいよ」
ひとつ息を吐いてから自慢の機材の電源を全て落とし、晃汰は立ち上がった。これ以上煮詰めても何も得られない、変な所でドライな性格の彼は早々に諦めてスタジオを後にした。