幻か、現実か
集会などの記憶は全くなかった。気が付けば飛鳥はまた一人、とぼとぼと小さな歩幅で家路を進んでいた。雲のせいか、空が少しだけ暗くなり始めて冷たい風が吹き始める。雨が降る、飛鳥はそう直感した。だが、彼女は歩みを早くしようとはしない。それどころか、今にも立ち止まりそうなほどに足はゆっくりと動いていた。降るなら降れば良い、そう思いながら空を見上げる飛鳥。風が彼女の長い黒髪を靡かせる。慣れた手つきで流れてきた髪を耳にかける仕草は飛鳥を少し大人っぽく見せていた。

汚れている。そう思ったのは耳元から手を離した時だった。彼女の右手首に巻かれたミサンガが赤黒く変色していた。まるで子供が白いシャツに絵具を付けてから洗っていなかったかのようにその汚れは染み込んでいるようだった。飛鳥はいつ何時も大切にしていたこのミサンガの汚れに自分が何日も気付かなかったという事が信じられなかった。それに彼女の記憶ではミサンガがこんな風に汚れるような事をした覚えがない。飛鳥は物憂げに淀んだ雲を見上げながら歩いた。

ビクッと体が跳ねるように肩をすくめる。飛鳥が丁度、駅の改札を通ろうとした時だった。ぼんやりとしていた視界が一瞬だけパッと白く光り、そのすぐ後に轟音が耳を叩く。雷雨だった。飛鳥が屋根のある場所まで行くのを待っていたかのように外は突然の豪雨と雷鳴に支配された。さっきまで甲高い声を上げながら笑っていた生徒たちがぞくぞくと走り込んでくる。飛鳥はホームで電車の到着を知らせる音を聞いた。扉が開き、電車が乗客を吐き出すとそれよりも圧倒的に多くの人間が四角い箱の中に吸い込まれていった。電車の中は雨独特の臭いと湿気による何とも言えない不快感に包まれていた。ポケットからハンカチを出して雨か汗か分からない水滴を拭き取る乗客たち。飛鳥は扉の近くに立ち、外をただ眺めていた。周りの雑音は次第に遮断されていく。なぜか彼女の聴覚は近くの会話ではなく、ガラスの向こうの雨音を捉えていた。

家に帰ると玄関にまで線香の匂いが漂っていた。和室に祖父の仏壇があるがいつもはここまで線香の匂いを感じたりはしない。なぜ今日に限ってこんなにも香るのだろうか、と疑問を抱く。だが、それはすぐに解決出来た。9月1日は彼女の祖父の命日である。あれは彼女が小学校2年生の朝である。眠たい瞼を擦りながら食パンを齧る飛鳥。朝から忙しそうに家事をする母親と出勤の準備をしている父親。新聞の番組表を見ながら今日はアニメがやらないなどと騒いでいる兄。そんな兄を尻目に飛鳥は床に届かない足を交互にぶらぶらさせながら久しぶりの学校に思いを馳せていた。しかし、いつもよりも音が大きいのではないかと疑うほどに突然鳴り響いた電話で飛鳥たちの1日は姿を変えた。学校から祖父の入院している病院へと行き先が変わり、車に乗せられた飛鳥は始業式に出られない事で出遅れてしまうという錯覚のような焦りとたくさん遊んでもらった祖父の死に対する悲しみが半分ずつだった。しかし、ベッドで横たわる祖父の遺体を見た時、飛鳥は自分の意思とは関係なく涙を流し、学校の事など頭からすっかり抜けてしまっていた。今日は久しぶりに祖父の遺影の前に座ってみようかな、と思いながらもそんな気にはなれなかった。なぜなら今、彼女の意識のほぼ全てを支配しているのが彼だったからだ。

ライ ( 2016/08/27(土) 01:36 )