02
「……なんだろ」


 美穂は車の中から遼の背中を見つめる。

 これまで遼が誰かと電話で話している姿なんて見たことがなかった。


「何の電話?」


 しばらくして戻ってきた遼に聞く。


「仕事の電話」

「えっ?」


 驚いて声を上げた美穂のことを、遼がちらりと見る。


「仕事してるの?」

「してちゃ悪いか?」

「も、もしかして、ヤバい仕事とか?」

「バカか? お前は」


 呆れたようにため息を吐き、遼は車のエンジンをかける。


「東京で働いてた時の伝手を頼って、少しずつデザインの仕事もらってる。パソコン一つあればできるからな」

「いつの間にそんなことしてたの?」

「あいつの趣味みたいな店だけじゃ、食っていけないだろ? もう一人居候も増えたことだし。シートベルト」


 遼に言われ、美穂が慌ててシートベルトを着けると、車は坂道を走り出した。


「今の電話。ちょっと大きな仕事がもらえそうだったから、来週東京で打ち合わせしてくる」

「遼くん、本当に仕事してるんだ」

「だから、してるって」

「いなくなったり、しないよね?」


 ハンドルを握る遼の横顔に呟く声は弱い。


「美玲ちゃんと優羽を置いて、いなくなったりしないよね」


 車がカーブを曲がり、周りの景色が揺れる。窓から吹き込む風とともに、遼の声が聞こえてくる。


「俺はここにいる」


 目を閉じて、遼の声だけに集中する。


「だからお前は、思いっきり走ってこい。こけたらまたここで、慰めてやるから」

「……うん」


 静かに目を開け、外を見る。青い空、白い波、生い茂る緑の葉。目に映るすべてのものを、忘れないようにしようと思う。

(これからも、このまま、ずっと)



 店に戻ると、美玲が焼きたてのパンをくれた。

 甘いカスタードクリームがあふれるほど詰まった、あのクリームパンだ。


「優羽は? 降りてきた?」

「ううん、今日はまだ」

「お腹すいてないかな? このパン持って行ってあげようかな」


 美穂の声にそばにいた遼がため息まじりに言う。

「腹が減りゃ降りてくるだろ? あんまり甘やかしすぎるな」

「なによ、遼くんは冷たすぎ」


 ふんっと小さく鼻で笑った遼が、さりげなくパンを一つ手に取り店の外へ出て行く。

(あれ?)

 微かな違和感に美穂は美玲に訊ねた。


「遼くん、パン持ってったよね? 俺は食わないって言ったのに」

「うん? 遼くんも食べるよ。クリームパンだけは」

「ええっ?」


 まさかの返答にどうして今まで気づかなかったんだろうと、驚いた。

(もしかして私に気づかれないようにこっそり食べてた?)

 美玲は美穂に悪戯っぽく笑って、耳打ちするように言う。


「遼くんってね、ああ見えてシュークリームが大好物なの。だからクリームパンなら食べるかなって思って作ったら、やっぱり食べた」

「えー!」


 きっと美玲の作るメニューにクリームパンが頻繁に登場していた理由の一つはそれだ。

 美玲はにこにこと微笑んで、美穂にパンを一つ差し出す。


「これ二階に持って行ってあげて。きっと優羽ちゃんも、お腹すかしてるはずだから」


 美穂は美玲からパンを受け取る。じんわりと手があたたかくなった。



「優羽? 入るよ」


 二階の遼の部屋の襖を開ける。締め切った部屋の中、敷きっぱなしの布団の上に優羽は背を向けて横になっていた。


「もう、窓くらい開けなよ。暑いじゃん」


 美穂が言っても、優羽は動こうとしない。仕方なく美穂が窓を開けると穏やかな風が狭い部屋の中へ吹き込んできた。


「ね、お腹すかない? パン持ってきたよ」


 布団の脇にぺたんと座って、優羽の反応を待つ。けれど優羽は何も答えようとしない。

 太陽が照りつける午後、神社の階段に座って、優羽と一緒に食べたパンを思い出す。

 蝉の声が響く下、優羽は嬉しそうに笑っていた。

 あんな日はもう二度と来ないのだろうか。



 優羽はあの日以来、バイトも辞め、外へも出ず、ずっとこんな調子だ。

 来週からは学校が始まるというのに。



「優羽。私、明日には家に帰るよ」


 反応がないことはわかっていたから、美穂は答えを待たずに続けて言う。


「私ね、ずっとバスケやってたんだ。でも怪我で思うように走れなくなって……もう、部活も学校も辞めちゃおうかと思うくらい、落ち込んでたの」


 美穂はそう言ってから、少しだけ口元を緩ませた。


「他の人からすれば、なんだそんなことくらいでって、笑われちゃうかもしれないけど……私にとっては、すごく大事なことだったから」


 音のない部屋に美穂の声だけが響く。


「だけどそんな時、美玲ちゃんに、うちにおいでよって誘われてね。美玲ちゃんの言葉に私は救われたの。ここに来なかったら私、もう走るの辞めてたかもしれない」


 窓から夏の終わりの風が吹き込む。


「何をしてもらったわけでもないけど……でもここに来てよかったよ。遼くんと……優羽にも会えたから」


 そう言って美穂は微笑んだ。本当に心からそう思えたから。


「ありがとね。優羽」


 布団の脇にパンを置いて部屋を出る。

 最後に一度だけ振り返ったけど、優羽は背を向けたままで振り向こうとはしなかった。





希乃咲穏仙 ( 2022/09/22(木) 19:41 )