05
 美穂は小さく微笑み、車の反対側に立っている美玲の元へ駆け寄った。


「美玲ちゃん、美玲ちゃん、すごいねぇ! こんな場所知って……」


 言いかけた言葉を切った。黙って空を見上げている美玲の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちていたから。


「美玲……ちゃん?」

「あ、やだ、ごめんねぇ。なんか、じぃんときちゃった」


 振り向いた美玲がさりげなく涙を拭って笑いかけた。


「私も初めて来たよ。こんな場所知ってたくせに、今まで内緒にしてたなんて、遼くんってひどいよね」


 そう言ってからみはもう一度夜空を仰いだ。


「一人でここに来た遼くんは……何を想いながら空を見上げてたのかな」


 美穂は美玲の横顔をしばらく見つめ、車中へ視線を動かす。

(美玲ちゃんを泣かせたのは遼くんだ。でも、本当にこの星空を見せたかったのは、きっと美玲ちゃんなんだ)

 遼は運転席に座ったまま、そっぽを向いている。

(なのに、自分は関係ないって感じで涼しい顔しちゃって……ほんと、ひどい男)



「おい、美穂!」


 美穂の側に優羽が駆け寄ってくる。


「なんかヤバい。すっげー涙出てきた」

「は? あんたなに泣いてんの?」

「わっかんねー。わかんねーけど、星見てたら涙止まんねーんだ。オレやっぱ、病んでるんのかなぁ?」


 小さくため息を吐き、美穂はもう一度車の中を見る。だけどそれでも、やっぱり遼は知らんぷりのまま。


「もうっ。優羽まで泣いちゃったよ……」

「え?」

「待ってて」


 美穂は優羽の前から駆け出して、車の反対側へ回る。そして、運転席の窓をこつんっと叩いた。



「ちょっと、遼くん」


 運転席に座る遼が美穂のことをちらりと見る。


「責任とってよ。二人とも泣いちゃったじゃん」


 遼はどうでもいいように、窓を下げ、小さく呟いた。


「泣きたいやつは泣かせとけ」

「え?」

「たまには吐き出した方がいいだろ? 貯め込み過ぎると、そのうち壊れる」


 美穂は黙って遼を見て、言葉の意味を探る。


「わかるよな?」


 配達の帰り道、遼の隣でわんわん泣いたことを思いだし、恥ずかしくなる。


 だけど、その後は少しだけすっきりしていた。問題が解決したわけじゃなくても心が軽くなった。

 遼は運転席のシートを倒し、フロントガラス越しにぼんやりと空を眺めた。

 美穂はそんな遼の横顔に呟いた。


「美玲ちゃん、言ってたよ」


 声が少しひんやりとした空気に浮かぶ。


「遼くんはここで、何を想いながら空を見上げていたのかな、って」


 遼はただ黙って星空を見ている。


「私も知りたいよ。遼くんは何を……ううん、誰を想って見上げていたの?」


 遼の視線が美穂に移る。美穂は思わず全身に力を込めた。


「知りたいか?」

「……うん」


(遼くんの想う人が、どうか美玲ちゃんでありますように)

 美穂は満天の星にそう願った。






 夜がうっすらと明ける頃、美穂は店の前の海岸へ下りた。

 海水浴場でもないこの浜辺は真夏の昼間でさえ、地元の人もあまり来ない場所。

 もちろんこんな時間に人影はなく、誰もいない浜辺を歩いてみると、さらさらとした砂がサンダルの中へ入り込んできた。


 美穂がこの町へ来て、もう三週間。


 夏が終われば地元へ戻り、二学期が始まる。その頃には足も良くなっていて、またあの部活へ戻れるはず。

(戻りたくないな……)

 心のどこかでそう思ってしまう。

 たとえ怪我が治っても、元のように走れる自信がない。きっと前みたいに跳べないし、仲間たちの活躍を歯がゆい気持ちで眺めるだけだろう。

 しばらく波の音を聞いたあと、美穂はサンダルを脱ぎ捨て素足になった。

 長く続く砂浜を見つめ、おもむろに足を出す。

 すると自分の意思とは関係なく、自然と体が動き出した。



 海からの風を受けて砂を蹴る。腕を振り、足を上げ、前だけを見つめて走る。

(どうしてだろう。あそこに戻りたくないのに。戻りたくないはずなのに……足は前へ進んでいる)

 砂に足を取られ、よろめいた。そのまま砂浜の上に手と膝をつく。

(そうか。私まだ、走るのが好きなんだ)

 顔を垂れたまま、荒い息を吐いた。完治していない膝が少し痛む。

 体はつらかったけれど、気分はそんなに悪くない。



「なに走ってんだ?」


 ふいに声をかけられ、顔を上げる。砂の上で膝をつく美穂を見下ろすように、遼が立っていた。


「まだ治ってないんだろ? 膝」

「少しくらいなら……大丈夫だよ」


 ゆっくりと立ち上がり、砂を払う。遼がこっちを見ているのがわかる。

 美穂は顔を上げ、遼のことを見つめて言った。


「来たよ。言われた通り、ここに」


 美穂の声に遼が小さく笑う。


「まさか、本当に来るとはな」

「えっ、冗談だったの?」


 慌てた様子の美穂に遼はふっと口元をゆるませる。そしてすぐに視線を落とし、少し離れた砂の上に座った。

 目の前にうっすら見えるのは、夜の明けようとしている水平線。

 素足をゆっくりと動かし、美穂は遼のそばへ近寄る。人一人分くらいのスペースを開け、美穂も同じように膝を抱えて座った。


 昨日、山の上で星を見上げた時。遼のことを知りたいと言った美穂に、ここへ来るように言ったのは遼だ。


 夜が明ける前、美玲に見つからないように海まで出てこれたら、何でも教えてやる、と。


希乃咲穏仙 ( 2022/07/26(火) 23:38 )