02
店を開けると目の前の海から波の音が聞こえる。潮の香りが鼻をくすぐる。
美穂は【営業中】と手書きで書かれたプレートを店先へ出しながら、視線を動かす。
狭い道路の向こう側にある堤防の上、もう見慣れた背中が見える。
(また絵……描いてる)
美穂は小走りで道路を渡ると堤防によじ登った。
「おはよ。遼くん」
堤防に腰かけ、スケッチブックに鉛筆を走らせていた男。香坂遼がちらりと美穂を見た。
しかし、すぐに何事もなかったかのように視線を海へ戻し鉛筆を動かし始めた。
美穂はその隣に腰かけ、スケッチブックをのぞきこむ。
繊細な線で描かれているスケッチブックの中の風景には海鳥が一羽、泳ぐように飛んでいた。
「上手いなぁ……遼くんは」
ため息混じりに思わず漏らす。
「私、図工とか美術って全然ダメ。絵心ないし」
堤防の上で足をぶらぶらと揺らし、美穂は目の前に広がる海を見る。
すぐ隣にいる遼は何も言わない。けれど美穂はそのまま続ける。
「体育だけは得意だったけどね。足速いとかは褒められてた。でもそれだけ」
口に出すとなんだか無性に情けなくなる。
「飛べなくなった私なんて、ホント、ダメダメ」
海鳥が空を横切った。海から吹く風が美穂の髪をさわさわと揺らす。
「上手いのは当たり前でしょ? 元プロなんだから」
振り向くといつの間にかやってきた美玲が腰に手を当て、にこっと笑った。
(そういえば前に……)
ここに来る前の遼は東京でデザインの仕事をしていたと美玲が言っていた。
だけど、今はこんな海辺の田舎町で仕事にも行かず、美玲の家でぼーっと暮らしている。
(今年三十路の大人のくせに。ヒモって言うんだっけ? こういうの。髪も整えて、ちゃんとした服に着れば、けっこうカッコいいと思うんだけどな……)
でも美穂にはそんなこと言えない。美穂自身も夏休みの間、美玲の家に居候させてもらっている身なのだから。
「さて、パン焼けたから。配達頼むね、二人とも」
美玲の声に遼が手を止め、前を向いたまま口を開く。
「コースは?」
「まずはいつもと同じ、坂の上の老人ホーム。それから帰りに今野のおばあちゃんちに寄ってくれる? あんぱん食べたいって言ってたから届けてあげたいの。腰の調子、まだよくないみたい」
「了解」
美玲のパンはこの町の人口の多くを占める、お年寄りたちに好評だ。
今流行のハード系ではなく、ふっくら柔らかくてほんのり甘い昔ながらの食感がお年寄りや小さな子どもたちに食べやすいと評判だった。
こんな小さな海辺の町で営業を始めた唯一のパン屋が物珍しいだけなのかもしれないけれど。