10
あの頃、幼かった頃の美穂には聞けなかった疑問を美玲にぶつけてみた。
「なんで急にいなくなっちゃったの?」
美玲がおばあさんのことを誰よりも大切に思っていたことを小さい頃からずっとそばにいた美穂は知っていた。
暗がりの中、美玲が黙って美穂を見る。美穂も目を逸らさず、じっと美玲の顔を見つめ返す。
「……怖かったの」
「え?」
美玲が美穂にふっと微笑んだ。
「いつか一人になること、わかっていたから。それが一番怖かったの」
「……おばあちゃんが、いなくなること?」
静かに美玲が頷いた。
「だから、逃げたの。一人になるのを恐れながら生きるより、最初から一人になったほうが楽に思えたからね」
美玲の言葉を美穂は黙って聞いていた。
「バカだよねぇ。何考えてたんだろね、私。そんなことしたって、結局はおばあちゃんをたった一人で死なせてしまった……」
一瞬言葉を詰まらせた後、美玲の発した声はわずかに震えていた。
「私はひどい女なの。優しくなんて全然ない。おばあちゃんに恨まれても、仕方ないよね」
「そんなこと、ないよ」
美穂はあの頃のおばあさんを思い出す。穏やかに微笑んでいた、おばあさんの顔を。
「おばあちゃんは美玲ちゃんのこと、恨んでなんかなかったよ。美玲ちゃんは好きなように生きればいいって……おばあちゃん、いっつも言ってた」
美玲が美穂にくしゃっと笑いかける。そして、座ったまま背中を向けた。
「美玲ちゃん……」
俯いて、黙り込んでしまった美玲の肩に手をそっと乗せる。だけど美穂の手では慰めることなんてできない。
「……遼くん、呼んでこようか?」
思わず呟いた声に美玲がゆっくりと顔を上げる。
「なんで?」
「え、だって……こういう時は、私なんかより、彼氏に慰めてもらった方が……」
美穂の言葉に美玲が薄闇の中、静かに振り返る。
「彼氏って、誰のこと?」
「誰のことって、遼くんに決まってる……」
そこまで言いかけ言葉を止めた。
一度も直接は聞いてなかった。最初から、ずっと気になってはいたけど敢えて触れずにいた。
「遼くんって……、彼氏じゃないの?」
「うん。違うよ」
美玲が少し笑って答える。
「でも、正確に言えば、元カレってやつなのかもしれないけど」
「え……」
戸惑う美穂に美玲が小さく微笑む。
「利用してるだけなんだよ。遼くんのこと」
美穂には美玲の言葉の真意がわからなかった。
どちらかといえば、『利用されている』と言われた方が納得できる気がした。
呆然として、声も出せない美穂に美玲が続ける。
「この店を始められたのは、遼くんが援助してくれたからなの。海の側で店を開きたいって話は付き合ってた頃にしてたと思うけど、開業資金半分出すから連れてってくれって、突然現れたの。勤めてた会社も辞めたからって……意味わかんないでしょ? もうとっくに別れてたはずなのにね」
そう言いながら美玲がため息をつくように笑う。
「だけど、どうしても店を開きたかったから、それを利用させてもらってるの。一緒に暮らすってことを条件にね。でも店の手伝いもしてくれるし、家事もしてくれるし、助かっちゃってる」
「それって……もう一度やり直したかったんじゃないの?」
「まさか」
美玲が首を横に振る。
「あの人は私のことなんか全然見てないよ。付き合ってる頃から、自分をさらけ出さない人だったけど、もう一度現れてからは特に」
そして、美玲はじっと美穂の顔を見つめて言った。
「多分、私と別れた後に……事故で、妹さんを亡くしてしまったからだと思うの」
「妹さん?」
「いたの。ちょうど美穂ちゃんと同い年くらいの妹さんがさ」
心臓がぎゅっと痛んだ。聞いてはいけないことを聞いてしまったような罪悪感に包まれる。
美玲はそんな美穂に静かに笑いかける。
「とにかく、遼くんのおかげで私は、ずっと夢だったパン屋さんを開業できた。おばあちゃんには私の作ったあんドーナツは食べさせてあげられなかったけどね」
美玲の視線がおばあさんの写真に移る。
「私ね海から昇る朝日を眺めながら、パンを作りたかったの」
おばあさんに向かって微笑みかける、美玲の横顔を美穂は黙って見つめる。
「夕日より、朝日が好きなの。だって希望があるでしょ?」
朝日を眺めながらパンを作れる小さなお店。優しい味がするパン。そんな場所へ連れてってくれと言った遼。
何の音もしないはずの薄暗い部屋に、かすかに波の音が聞こえた気がした。