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 すっかり日が落ちていた。


 江坂樹は愛車を母校へ向けて走らせる車のヘッドライトが街路樹を浮かび上がらせた。

 木々は寒さにじっと耐えて立っている。街を行き交う人も、コートの襟を合わせて足早に家路を急ぐ。

 その光景は本格的な冬の到来を告げていた。


 見覚えのある風景が徐々に現れ始めた。

 三年間通った道だ。

 断片的ではあるが、高校時代の記憶がパズルのように復元していく。時間をどんどん逆行して、高校生に戻っていくような感覚だった。

 ついにあの坂道へと差し掛かった。

 春は桜が咲き誇り、新入生を歓迎するアーチの役目を果たしていた。しかし、この時期はまるでその面影はない。

 当時はこの坂を歩くのが日課だった。少々感慨深くなる。運動不足の今となっては、とてもできそうにはない。


 校門が見えてきた。

 住宅街に面したこの場所は、いつもならひっそりとしているが、今夜だけは違う。

 投光器が大きな看板を浮かび上がらせている。

 『同窓会会場』の文字がはっきりと読める。

 樹は車を減速させた。すぐさま誘導係の一人が駆け寄ってきた。


「車は中に入れていいんですよね?」


 窓を開けて樹は訊ねた。


「はい。グラウンドに駐車してください」


 係員は笑顔で応じた。ちょっと車の窓を開けるだけで、身体は冷気に包まれた。外仕事は大変である。

 彼もおそらく同級生なのだろうが、樹にとっては面識のない人物だった。


 会場には知った顔がいるのだろうか。

 少々不安な気持ちになる。


 グラウンドにはすでに20台ほどの車が整列していた。ここでも別の係員が迎えてくれた。


「受付は体育館になりますので、どうぞ」


 寒空の中、白くぼんやりと浮かび上がった校舎は昔と変わりない。窓に明かりがないので、今はただ巨大な塊でしかない。

 そんな校舎の反対側には体育館が見える。

 こちらは黄色い光が漏れていた。まもなく取り壊される建物にとって、今夜が最後の大仕事になるのかもしれなかった。


 樹の少し先を二人の女性が並んで歩いていた。

 こちらの気配を感じたのか、二人が同時に振り返った。しかし、どちらも樹には馴染みない顔であった。彼女らも一瞥をくれただけで、すぐに前を向いてしまった。

 受付には幹事の山岸が寒さに耐えるように身体を揺らして立っていた。

 昔の精悍な顔つきは随分と柔和になってはいたが、それでも目元は変わっていなかった。樹にはすぐに彼だと分かった。


「江坂君、久しぶり」


 山岸の方から声を掛けてくれた。


「ほんと、久しぶりだね。山岸君」


 樹は軽く会釈をした。自然と笑みがこぼれた。

 山岸は胸につけてくれと、リボンの付いた名札を渡してくれた。


「江坂君、今夜はギターを演奏してくれるんだろ?」

「いや、それはもう無理だって」


 樹は笑いながら手を振った。


「まあまあ、その話は後でゆっくりと」


 どうやら山岸は余興として、樹を担ぎ出すつもりでいるらしい。

 その時は仕方ない。

 彼もこの同窓会のために相当骨を折ったにちがいない。そんな彼の頼みとあっては、無下に断る訳にもいかないだろう。

 ギターは実際に弾かなくても、構える格好だけで場の雰囲気を盛り上げることはできるかもしれない。

 用意されたスリッパに履き替えて、体育館に上がった。

 学生時代ここへは何度も出入りしたが、今夜ほど豪勢に飾られているのを見たことはなかった。

 壁面には清潔なレースのカーテンが垂れ下がり、天井からは真紅のテープが体育館の四隅に向かって張られている。

 そしてクラスごとに設置された大型テーブルにはシェフによって続々と料理が運ばれてくるところであった。

 すでに会場は大勢の人で賑わっている。

 精一杯着飾った女性たちや、名刺を交換し合う男性たち、中には産まれたばかりの赤ん坊を同級生に披露する者の姿もあった。

 樹は指定のテーブルに着くまでに、名前こそ思い出せないが、いくつもの懐かしい顔に遭遇した。錆び付いていた記憶が今動き始める。十年という歳月を一気に飛び越えた。

 テーブルのあちこちから歓声が上がっている。その声は喧噪となり、体育館を揺らすほどであった。こみ上げてくる懐かしさが、みんなの声を自然と大きくしているのであろう。誰もが競って声を上げている。

 樹がクラスのテーブルに落ち着くと、すぐ横から近づいてきた者があった。


「久しぶりだな」


 振り返ると、城野一志だった。

 樹は思わず感嘆の声を上げた。

「城野。あんまり変わってないな」

「そう言うお前も、すぐに分かったよ」


 一志は大げさに笑った。

 不思議な感覚が身体を突き上げる。

 一瞬にして高校時代に帰ってきた。顔つき、体つきは当時とまるで違うのに、何故か意識だけは高校生のままなのである。

 一志とはしばらく近況や仕事のことを話し込んだ。

 樹は当時あまり話した覚えがない女性たちからも積極的に声を掛けられた。

 こうして見ると、男性よりも女性の変貌は著しい。化粧が上手なせいか、学生時代の面影が見出せないのだ。

 それでも彼女たちとは上手く話を合わせることができた。

 昨日卒業アルバムで顔と名前を一致させておいたことが大いに役立った。

 遠くのテーブルではどっと歓声が沸き起こった。どうやらクラスの人気者が遅れて登場したらしい。

 樹はメモにあった『小林由依』のことを突然思い出した。この人物は一体誰なのだろう。

 数人の女性にそれとなく当たってみた。

 しかし、誰もが口を揃え、そんな名前に心当たりがないとやはり予想した通りの結果が返ってきた。

 小林由依という人物には実体がなかった。

 メモに残された文字だけの存在である。案外、このメモは文化祭の演劇の台本か何かなのかもしれない。

 樹はもうこの名前を忘れることにした。

 少なくとも、この会場に現れることはない人物である。

 そんな架空の人物よりも今は当時の仲間とともに思い出話に身を委ねていたかった。



希乃咲穏仙 ( 2023/10/29(日) 22:22 )