06
樹は電車に揺られていた。
この時間、車内に乗客の姿はなぬ、つり革だけが一斉に同じ方向へ揺れて、その存在を主張している。
(それにしても今日は大変な一日だったな。昨日、よく眠れなかったのもあるか)
今になって一日分の疲労感が身体中を包み込んでいた。
ちょっと気を許せば、すぐさま深い眠りに落ちそうで樹は小刻みに頭を振った。
(それにしても)
結論を言えば、今日のライブは失敗だった。もし仮にこれが成功を収めていたら、由依はこんなふうに学校生活に終止符を打たなくて済んだのだろうか。
彼女は前日に風邪を引いたことが原因で実力が発揮できなかった。体調さえ崩さなければ、全てはうまくいったのだろうか。
樹は考えを先へ進めようとした。しかし、霧の中を歩いているような感覚しか得られない。
先へ進んでいるのか、それとも同じ場所を巡っているのか、それさえ分からなくなる。
どこか妙な具合だった。
樹自身も風邪を引いたのだろうか。電車に乗った辺りから、ひどく体調が悪くなったように思えた。
もう一度真剣に考えてみようと、身体に力をこめる。
由依はこの世の存在ではなかった。人間を超越した彼女が、失敗をやらかすことなんてあるのだろうか。
(いや、違う)
彼女は最初から失敗する運命だったとは考えられないか。どう転んでも、別の人生を歩むことなど出来ない。
例え風邪を引かなくても、何らかの違う要因が彼女の成功を阻んだことは十分に考えられる。
いずれにせよ、彼女には再び学校を去る運命だけが用意されていたのだ。
由依はそうなることを知らなかったのだろうか。それとも最初からそれを承知していたのだろうか。
(駄目だ)
頭の中で霧がますます深くなってきた。もう立ち止まるしかない。自分がどちらの方向を向いているのかも分からない。下手に動けば、思考の縁から転落してしまいそうだ。
早く眠りにつきたいとさえ思えた。そうすれば、この不安感からも一気に解放されるだろう。
そうしている間にも、樹の頭の中には、次々と疑問が湧いてきて、答えを見つけるより先に、新たな疑問が幾重にも重なる。
どうして自分は電車に乗っているのだろうか。
この騒音が安眠を妨害する元凶。
早く降りてしまいたい。
さっきまで誰かと話をしていた気がする。
もう遠い昔のように思える。
相手は誰だったのか、さっぱり思い出せない。
とても大事な内容だった気がする。
(あぁそうだ、由依だ)
樹はやっとのことで思い出した。
彼女の姿が遙か遠くになっている。どれだけ思い返しても、顔の輪郭さえ滲んでいる。
いや、そんなことよりも今は眠りたい。
とにかく身体を休めたい。
樹は薄目を開けて腕時計を見た。もう数分で午前零時だ。
(そうか)
時間のせいだと気がついた。
由依の存在が消えかかっている。
先生や同級生の記憶から出ていったように、彼女は今、樹の記憶からも立ち去ろうとしている。
このままでは忘却の勢いに流されてしまいそうだ。
(何とか、しないとな)
樹は制服の胸ポケットから、生徒手帳を取り出すのももどかしく、真っ白なページを一枚はぎ取った。
もう時間がない。
揺れる車内で鉛筆を走らせた。
『小林由依が好き。由依を忘れない、忘れたくない』
目を見開くと窓から漆黒の海が見える。
いつか彼女と一緒に来た海。
まもなく電車はあの海に停まる。
もう一度しっかりと海を見た。
彼女があの波の中でくるくる踊っている。
(……ダメだ)
強く意識を持たないと消滅してしまう予感がする。大切な宝物を誰かに取られるのではないかという恐怖感に襲われた。
電車は海の見えるホームに滑り込んだ。
樹はふらふらと席を立った。
ここで降りなければならない。
電車を降り、駅舎を出ると海まで向かった。一度来た道だ。足が覚えていた。
誰もいない砂浜が開けた。
波が寄せては返す音だけが耳に突き刺さる。
(なんで、ここに来たんだ?)
誰かに会うため?
それは誰だったのか?
その人はここで待っているような気がした。しかし、それは思い違いだったか。
頭が朦朧とする。
許されるのなら、このまま砂浜に倒れてしまいたい。
海辺には誰もいない。
会うべき人もここにはいないし、そもそも誰に会おうとしていたのか、それすらも思い出せない。
どうやら場所を間違えたらしい。
待ち合わせ場所はここではなかった。
(あぁ、思い出した)
約束の場所は学校の体育館か。
体育館の裏手に階段があった。下からは見えない所に、その人はいつも座っていた。
(きっとそうだ)
どうしてそんな所に座っているのか、いつも不思議に思っていた。
もっと早く思い出すべきだった。
これから学校の体育館まではどうやって行けばいいのか。
それはここから、何千里も離れた場所のように感じる。
しかも、今降りたのが終電だった。こんな場所ではタクシーが捕まるとも思えない。
(時間切れだ。今度はもう……)
その人はきっと今も、そこで待っているはず。
でも、もう間に合わない。
樹は忌々しげに時計を覗き込んだ。
時計の針は午前零時ちょうどを指していた。
霧が晴れてくる。身体が楽になる感覚。
(もうこれで、何も悩まなくても済むのか)
全てを忘れて。
楽に。