05
どれだけの時間が経っただろうか。
樹は涙を拭って立ち上がり、視線を移すと由貴ももう泣いてはいなかった。
「それじゃ、そろそろ帰ります」
「そうですか、せっかく来て頂いたのに、何のお構いもできなくて」
由貴の目は赤く腫れ上がっていた。それを見られたくないのか、顔を少し逸らすようにして言った。
今日、久しぶりに由依のことを思い出し、昔のように泣いたのかもしれない。
由貴は妹がいなくてもしっかり生きている。深い悲しみはすでに乗り越えているのだろう。
「どうか気を落とさないでください。僕には由依さんはどこかで無事に生きてるような気がします」
樹はそう言った。それはあながち嘘ではないのかもしれない。現実世界にあれほど鮮明な姿を見せることができるなら、いつかひょっこり姉に会いに来ても不思議ではない。
「今日はありがとう。由依のことを聞けて嬉しかったです」
「こちらこそ、ありがとうございました。由依さんには大変お世話になりました。彼女がお帰りになったら、同級生の江坂樹が感謝していたとお伝え下さい」
そう口にしながら、樹は不思議な気分にとらわれた。
由依と年齢のかけ離れた自分が、一緒に高校生活を送っていたという話に何故、由貴は何の疑問も感じないのだろうか。
いや、長い間妹を待ち続けた由貴にとっては由依の身に何が起きようとも、全てを受け止める心の準備があったのかもしれない。
樹は玄関のドアを開けた。
外はすっかりと夜の帳が下りていた。
ひどく重い足取りだった。
ここまで何をしに来たのだろうか。
姿なき由依を追ってきた。
彼女はこの世に存在しなかった。
月明かりを頼りに坂道を下っていった。見上げると大きな満月が輝いていた。
駅まで時間を掛けて歩いた。
駅には人気がなく、薄暗い待合所は樹の他には誰もいない。
(由依に会えなかったな)
おそらく彼女は二度と姿を現すことはないだろう。
樹はそう思いながらも、諦め切れない気持ちで一杯だった。
待合所には扉がなく、容赦なく虫の音が入ってくる。人がいないと知ってか、我が物顔で大合唱をしている。
いつの間にか樹はその鳴き声にすっかり包囲されてしまっていた。
鳴き声に包まれ由依のことを考えてみる。
(彼女は今、どこで何してんだろうか)
意味もなく狭い待合所をぐるりと見回した。ここで強く念じれば、ひょっとすると由依が現れるのではないか、そんな気になって樹の口元は自然と緩んだ。
(もし会えたら何を言ってやろうかな)
まずは文句の一つでも言ってやらねばなるまい。姉を心配させるだけでは飽き足らず、自分までも心配させやがった。
でも、それ以上に由依に謝るべきだろう。
もっと楽しい高校生活を演出してやりたかった。それには樹の力は遠く及ばなかった。隣の席に座る自分には荷が重すぎた。
どこか遠くで汽笛が鳴った。
(いや、待てよ)
突然、樹の頭に閃光が走った。
(何か考え違いをしていないか)
ずっと違和感はあった。今まではそれが何かは分からなかった。
そもそも、新学期にどうして隣の席が一つ空いていたのか。この点がどうもしっくりこなかった。
偶然空いていたその席に小林由依が滑り込んで、それがきっかけで彼女と出会うことができた。
そう信じて疑わなかった。
しかし、それは変ではないだろうか。
なぜなら、由依がその姿を自由に出現させられる存在なのだとしたら、何もわざわざ空いている席を探す必要はない。
今を生きる人間とは違って、彼女は偶然を超越できる世界にいる。とすれば、教室の誰の横に座ろうと、それは彼女の自由ではないのか。
由依の立場からすれば、出会う相手は意図的に選べたことになる。
座席は偶然に空いていたのではない。
由依が自ら用意した。彼女は数ある生徒の中から、樹を選んだ。
それには、一体どんな意味が込められていたのだろうか。
樹は春を思い出していた。
時が流れるまま、無気力に生きていた。心に自由もない、まるで奴隷のような高校生活を送っていた。
それは人を愛することも、また愛されることもない日々だった。
そんな樹の前に小林由依は現れた。
彼女との出会いは希望と勇気を与えてくれた。
彼女の存在は毎日の生活に活力を与えていた。
ギターの特訓をし、彼女の才能に少しでも追いついたと実感した時、確かに自信がみなぎった。
そこで初めて、由依を心から愛することができた。
同時にそれは生まれて初めて人を愛した瞬間だった。たちまち彼女はかけがえのない存在となった。
「そうか」
由依は自分の生き方を変えるために来てくれた。学校で最も駄目な後輩に目をつけてくれた。
樹の頬を涙が伝った。
(ありがとう。君のおかげで俺は変わった。もう大丈夫だ。心から礼を言うよ)
ホームに電車が入って来た。この駅での終電。
樹は足取りも軽く、飛び乗った。
時刻はもうすぐ午前零時を迎えようとしていた。
長かった一日もどうやら終わりを告げていた。