12
樹は言葉を失い、しばらく校医と睨み合う格好となった。
彼女の言葉が頭の中を渦巻いている。
必死にその意味を考えるが、壊れたカメラのように、いつまで経ってもピントが合わない。お互いの認識に大きな隔たりが生まれている。これでは、この先会話が成立しない。
「僕が倒れた、って言いました?」
訳が分からない樹にはそんな確認がやっとだった。
「ええ、でももうすっかり元気になって、保健室を出ていったのだと思ってたわ」
「とにかく、開けてくれませんか」
樹は理解するより先にそう言った。
「分ったわ」
(この中には由依がいる)
彼女に会うことが何よりも先決だった。
校医は口を尖らせるような表情で鍵を差し込んだ。
ドアが開くと、飛び込むように中に入った。
しかし、静まりかえった室内には誰もいなかった。樹の大袈裟な息遣いが響いていた。
何度も部屋の中を見回した。狭い部屋だ。人が隠れるような場所もない。さっき寝ていたベッドのカーテンは全開になっていて、そのベッドももちろん空だった。
樹は助けを求めるように振り返った。
「さっき、ここに小林さんが寝てましたよね?」
腰に両手を当てて立っている校医にもう一度問いかける。由依の看病をしたのは、彼女に他ならない。簡単過ぎる問いかけなはずだ。
「いいえ、寝てたのはあなたよ」
彼女のしっかりした口調は樹の期待をいとも簡単に裏切った。
(そんなはずあるか)
(何か勘違いしてるんだ)
「先生、しっかりしてくださいよ。ここに女の子が寝てたじゃないですか。彼女を処置したのは、先生ですよ」
「いいえ、私が処置をしたのはあなたよ。女の子なんてここには来てないわ」
校医はきっぱりと言い放ったその顔は冗談を言っているようには見えない。
(本当に……由依を忘れた?)
ありえないと思いながら、樹はさらに考える。
(そうだ!)
由依が着替えた制服があるはずだと気付いた。
(ベッドの近くに置いてるはず)
由依はここを出る時、体操服姿だった。それなら最初に着ていた制服がそのまま残っている。
樹はベッドに駆け寄って、その辺りを見回した。しかし、制服は見当たらない。ベッドの下を覗き込んだり、カーテンを何度か開け閉めして確認したが、由依がいた証拠はなかった。
樹の目の前には自信に満ちた校医の顔があった。
「何かの勘違いでしょ? この部屋にはあなたと私しかいなかったの。それに、そもそもコバヤシさんって子、私は知らないわ」
何か悪い夢でも見ているように思えた。なぜ校医は由依のことを隠すのか。
由依はこの部屋に確かにいた。なぜかは分らないが、校医は嘘をついている。
彼女に全てを白状させる確固たる証拠はないものか。
樹はなおも食い下がった。
「先生は今までどこへ行っていたのですか? そうだ、先生は職員室で小林さんの家に電話を掛けてたんじゃないですか?」
樹は手掛かりを思い出した。
樹と由依を部屋に残したまま、彼女は電話を掛けてくると言って出ていった。この点をどう説明するのか。
「だから、それはあなたの家に連絡をしてたのよ」
「え?」
「でも留守だったから、担任の先生と相談したの。そしたら、昼までは様子を見ようということになったのよ。それで、ここへ戻ってきてみたら、あなたの姿がなかったと言う訳よ」
樹にはもう反論する言葉は残っていなかったが、校医は構わず続けている。
「でも、もう大丈夫よね。それだけピンピンしているんだから」
そう言うと彼女は笑顔を作った。
樹は怖くなって、この場を逃げ出したくなった。そのうち自分まで記憶から消されそうだ。
何より由依のことが心配だった。
樹は校医に頭を下げ、保健室を飛び出した。