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それは不思議な光景だった。
今、保健室を出ていったばかりの由依の姿がどこにもない。あれから三秒と経っていないはずなのにだ。
樹は扉の向こうに彼女の姿を捉えることができると信じて疑わなかった。
しかし、彼女の姿はどこにも見当たらない。何とも受け入れがたい現実だった。まさか、人間が煙のように一瞬で消えることはない。
樹には背筋が凍るような恐怖感だけが湧いてきた。
由依は一体どこへ行ってしまったのか。
確信のないまま廊下を駆け出した。こうでもしないと心を落ち着けることができない。このままでは不可解な現象を認めることになってしまう。
体育館へ向かって猛然と走る。さっき由依を背負って歩いた道。彼女の温もりが思い出された。
校内は学祭一色。
今の樹にとって、それは何の意味も持っていなかった。
一刻も早く由依を見つけたい。もしこのまま見つからなければ、何かとんでもないことになるような気がする。
のんびり廊下を歩く学生らの間を縫うように走った。
(もしかすると、由依はどこか教室にいるのかもしれない)
そう思って、廊下の左右に目を遣ることは忘れなかった。しかし、隠れるような空き教室はなかった。
いよいよ校舎の端まで到達してしまった。
中庭を通り抜ければ、その先は体育館。しかし、由依の姿はどこにもない。
(くそっ、反対側か)
樹は慌てて保健室の方へ引き返した。途中、階段を下りてきた女生徒二人とぶつかった。
「ごめん」
樹は悪態をつきながら体勢を立て直す二人を尻目に走り続けた。足がもつれて転びそうになる。
保健室の前を通過し、その先を急いだ。
廊下は直角に折れ、その先は体育教官室や武道場で終り。この辺りは学祭の飾り付けもなく、由依どころか人の気配さえ感じられなかった。
しんと静まりかえった廊下に樹の靴音だけが響き渡る。
突き当たりの武道場まで来てしまった。扉に手を掛けてみたが、びくともしなかった。ここは元々鍵が掛かっている。この中に由依がいるとは考えられなかった。
樹は肩を落として今来た道を引き返した。
(一体どこ行ったんだよ)
ほんの数秒の出来事。彼女がその間に進める距離など、たかが知れている。絶対に遠くへは行っていない。行けるはずがない。
保健室が見えてきた。
(案外、保健室に戻ってるかもな)
小さく笑みを浮かべる。それが正解のような気がする。いや、そうとしか考えられない。樹にはかすかな自信が湧いてきた。
保健室の扉を開こうとしたが、鍵が掛かっていた。
(やっぱ、ここだな)
由依は鍵を掛けて閉じこもっている。
「由依!」
樹は扉を叩いた。
「おい、開けてくれよ」
しかし、扉は固く閉ざされたまま。返答はない。
何か気に障ることでもあったのだろうか。樹の行動が彼女を怒らせたのだろうか。
樹のしたことといえば、彼女に告白をして、キスをしたこと。
やはり、それが彼女を傷つけ、心を閉ざす原因になったのか。
「由依、そこにいるんだろ?」
樹は扉を叩き続けた。
「どうしたの?」
あらぬ方向から女性の厳しい声がした。振り返ると校医の先生だった。
樹は一気に救われた気持ちになった。彼女なら鍵を持っている。
「先生!」
「あら、あなただったの?」
校医は呆れたように言った。
「先生、鍵が掛かっているんです。開けてもらえませんか?」
樹は掴みかかる勢いで返す。
「ああ、それは私が閉めたのよ」
「えっ?」
「戻ってみたら誰もいなかったから」
「由依、小林さんはいませんでしたか?」
「コバヤシさん? 誰のこと?」
校医は怪訝そうな顔で訊いた。
この非常時に何を言っているのだ。樹はもどかしくなった。
「さっき僕がここへ連れてきた子ですよ。小林さんっていうんです」
樹は言葉を続ける。
「演奏中に倒れたんでしょ?」
「そうですよ」
樹はせかすように言った。
すると校医は驚くべきことを口にした。
「倒れて運ばれてきたのは、あなたじゃないの」