09
どれだけ時間が流れたのだろうか。閉ざされたカーテンの中から、シーツがめくれて身体の動く気配があった。
「由依?」
樹は椅子から立ち上がって、そっと声を掛けてみた。
「樹くん、そこにいたの?」
奥からしわがれた声が聞こえた。
「気がついた?」
樹はカーテンに張りつくようにして訊いた。
「うん。もう、大丈夫」
白い手がカーテンの重なりを器用に押し分け、小さな隙間を作った。
樹が思わず手を伸ばすと、由依はその手をぎゅっと握りしめた。
樹に言葉はなかった。なぜか涙がこぼれ落ちた。
由依の手に自然と力が入る。
樹はもう一方の手で、ゆっくりとカーテンを左右に割った。
由依は半身を起こし、樹の方を向いていた。泣いていたのか、目の周りが赤くなっている。
ベッドの上の由依は体操着に着替えていた。カーテンで仕切られた空間には女性特有の強い香りが立ち込めていた。
由依は握った手を離そうとはしなかった。
「ごめんなさい」
むしろ、引っ張るようにして小さく言った。
「いや、謝るのは俺の方だよ」
「どうして?」
由依はゆっくりと樹を見上げた。
「そりゃ、君を誘ったのは俺だからね」
由依はくすっと笑う。
「優しいのね」
由依は握りしめていた手をほどいた。
「でも、違うの。全ては私のせい」
樹は何かを言おうとしたが、由依は遮るように続けた。
「昔からそうなの。私って不器用で、ここ一番大事な時にいつも失敗ばかり」
「いや、素晴らしい才能に恵まれているだろ? 俺からすれば、羨ましい限りだよ。今回は身体の調子が悪かっただけだよ」
「ありがとう。でも、もう励ましてくれなくてもいいの。自分のことは自分が一番よく分かってるから」
由依はそんな風に言った。
その言葉は何もかも投げ出してしまったように感じられた。
(折れた心を元に戻すには、どうすればいい?)
樹は頭を巡らせた。
「な、身体が治ったら、もう一度みんなの前で歌を披露してくれないか?」
「もうこれで十分よ。これまでとっても楽しかった。あなたのおかげよ」
やはり由依は今回の失敗を機に、学校で自分の歌を封印するつもりでいるらしい。このままここを去る気なのだろうか。
「悔いはないの?」
樹はそんな言葉を口にした。流れ始めた彼女の心を何とか引き止めたい一心だった。
「うん。最初からこうなる運命だったのよ」
由依は口元だけで笑った。
「これまで色々あったけど由依は全然悪くなかった。これからもみんなの前で堂々としてればいいだろ」
樹は強い調子で言った。それは間違いないと思った。少なくとも自分は彼女の味方である、と。
しかし、樹にはそんな風に言葉でしか彼女を励ますことができない。それを思うと自分の限界を感じて悲しくなる。
優れた才能を持ち、将来の夢に向かって歩き出した由依に、何の取り柄もない人間が何を言おうとまるで説得力がないではないか。
だがそうでもしないと由依は自信を取り戻せないように思えた。このままでは彼女は暗い過去を背負って生きていくことになる。
「ごめんね。樹くんには余計な心配ばかりかけて」
由依は静かに言った。
「もう芸能界に進むことは決めているんだろ?」
「ええ、そうよ」
「いつまでこの学校に居られるの?」
「本当はもっと早くに出て行くつもりだったけど、何だか居心地がよくて、決心が鈍ったみたい」
思い出すように由依は言った。
「俺にはこんなことを言う権利はない。けど、出来ればあと一年半、いや半年でもいいから学校に残ってほしい」
「一年半?」
「そう、一緒に卒業したいと思う。少しでも長く一緒にいたいんだ」
「ああ、もうそれ以上は言わないで」
由依は両手を前に突っ張るようにして言った。
「だって、悲しくなるでしょ?」
「いや、言わせてくれ」
樹はその両手を左右から包み込むようにした。
「いつからか分からないけど、由依のことが好きになっていたんだ。いつも君のことを意識していたけど、それがどんな気持ちかよく分からなかった。でも今日、舞台に立ってはっきりした。自分のことより、君のことばかりが心配だった。だからはっきりと言える」
「由依のことが好きだ」