08
保健室には運良く校医が居てくれ、由依を一目見ると顔色一つ変えることなく、早速自分のやるべき仕事に取りかかった。
由依を樹から受け取ると、手際よくベッドに横たえた。ひょっとしてこの校医は由依のことが心配で、ずっとここで待っていたのかもしれない。樹はふとそんなことを考えた。
白いシーツの中、由依の真っ赤な顔だけが生々しく感じられた。まるで魚のように口を動かし、身体全体を震わせえている。
(朝からここに居るべきだった)
樹に後悔の念が湧いた。
校医はカーテンを閉め切ると、すっかりびしょ濡れになった服を着替えさせた。その後何度か出入りし、適切な処置を施した。
しばらくして、校医はカーテンの隙間から身を滑らせるように出てきた。
「彼女は大丈夫ですか?」
樹は校医の顔を見るなり尋ねた。
「大丈夫、安心して。しばらく寝ていればよくなるわ」
「病院に行かなくてもいいんですか?」
「そこまで大袈裟なものじゃないわ。ただ風邪の引き始めで、高熱が出たのよ。無理をして意識が朦朧としたのね」
それを聞いて樹は胸を撫で下ろし、やっと近くの丸椅子に腰掛ける気になった。
「でも、一応ご家族には連絡しておいた方がいいわね」
校医は樹を安心させておいてから、そう言った。
「あなた、彼女の自宅の電話番号、知ってる?」
「いいえ」
樹は由依に双子の姉のことを思い出した。今、その姉は自宅にいるのだろうか。
「それじゃあ、職員室で電話を掛けてくるわ」
「お願いします」
校医は机で何かを記入してから席を立った。
「あ、それと、後の面倒は私が見るから、あなたは戻ってもいいのよ」
校医は保険室のドアを開けてからこちらを振り返り言った。
「いいえ、ここに居ます」
「そう」
校医はそれ以上は何も言わず、保健室を出て行った。
中庭に面した窓からはベースやドラムの入り交じった低音がわずかに漏れ聞こえてきた。
どうやらライブの方は再開したようだ。
観客たちは歌の途中で由依が倒れたことや、そんな彼女を背負って舞台裏に消えた樹のことなど、すっかり忘れているに違いない。
(ついさっきまで、あそこに立ってたんだよな)
静かな部屋の中、樹には数分前の出来事が信じられない気がした。
樹の思い込みで、本当は二人は朝からずっとこうして保健室にいたのではないか、そんな気がしてくる。
(あり得ないか)
確かにあの瞬間、二人は大勢の観客を前にして立っていた。
全てが夢物語であってほしい、そんな気持ちが無意識の内に自分の精神に幻覚をもたらしているのだろう。
あれほど練習したのに息はまるで合わなかった。結果、生徒達の前で大失態を演じることになった。
(こんなはずじゃなかった)
昨日、由依を取り囲んでいた女連中の顔がちらついた。
樹自身のことはどうでもよかった。みんなから何を言われようと気にはならない。
けど、由依は別だ。由依の歌はプロの域に達している。この先芸能界を約束された由依の歌を聴かせるはずだった。
彼らがデビュー前の由依の歌を聴けることは、まさに光栄と言ってもよかった。
しかし、由依の歌はまるで響かなかった。本来の声は出せなかった。
(無音の詩。だな)
日頃から由依はみんなと距離をおいていた。人と交わることを避けていた。
それは彼女の性格がそうさせるのか、あるいは学校を中退するつもりで、意識的に友達を作らないようにしていたのか、いずれにせよ、彼女はいつも無言だった。
そして、いよいよ学校を去ろうという時、彼女は美しい歌声で生徒に語りかける。みんなはその卓越した才能に触れ、彼女の存在を認めるはずだった。
結果として由依は無音の詩しか唄えなかった。
樹はひどく自己嫌悪に陥った。
(全部、俺のせいだな)
無理矢理に由依をステージに引っ張り出したのは樹だった。明日以降、由依はますます校内で孤立するだろう。
樹の耳には女連中のあざ笑う声が渦巻いていた。
由依に何と声を掛けたらいいのか、まるで見当もつかない。
由依としても実力を発揮できずに終わったことを不本意に感じているのではないだろうか。
もし望まれるなら、いつでもギターを弾く用意もあった。
(もう一度チャンスが訪れないか。せめて、一度だけでもいいから、由依の本当の歌声を響かせてやりたい)
樹はじっと一人で考え続けていた。
芸能界に進む彼女に、学校生活のいい思い出を残してあげたい、そんな気持ちで一杯だった。