07
サビの部分で由依が咳き込んだ。樹の伴奏に雑音が交じる。これはもう歌とは言えなかった。それでも彼女は歌うのを止めなかった。
会場は騒然となっていた。どうやら嘲笑や野次が飛び交い、体育館は揺れていた。いつからそんなことになっていたのか、由依の様子に気を取られ、まったく気づかなかった。
ギターの伴奏からは徐々にリズム感が失われていく。まるで今にも消えてしまいそうな蝋燭の炎が最後のあがきで揺らめくように、メロディが浮ついていた。
樹は由依のことだけが心配だった。やはり彼女をこの舞台に立たせるべきではなかった。完敗だと思った。
もう会場は怒号に支配されていた。もはや静かに歌を聴く者は誰もいなかった。まるで生徒らは暴徒と化したようだった。
一人ひとりの叫び声が何を言っているのかはっきりと聞き取れない。しかし体育館を支配するほどに膨れ上がったうなり声は、容赦なく樹に牙をむいた。身の危険すら感じるほどに。
そんな中、突然由依の身体がぐにゃりと折れ曲がり、ステージの上を転げ落ちた。会場の喧騒のせいで、彼女が倒れる音がまるで聞こえなかった。
いつの間にか彼女の声が聞こえなくなっていて、気がつくと、由依の身体がだらしなく倒れていた。
会場は予期せぬ出来事に静まりかえった。一体何が起きたのか、誰にも分からないようだった。観客は唖然として、ステージを見守るしかなかった。
樹はギターを放り出して、彼女の傍に膝をついた。
「由依、しっかりしろ!」
彼女から返事はなかった。意識がないように見える。舞台裏からはスタッフが飛び出してきた。
由依の身体は異常なほどの熱を帯びていた。彼女の傍に寄るだけで、その熱気は樹の身体にまとわりつくほどだった。
由依は薄目を開いて樹の顔を確認すると、口元をゆっくりと動かした。しかし声はまるで出ていなかった。
それでも口の動きからは、『ごめんなさい』と読み取れた。
(なんで謝るんだ?)
彼女は今、どんな気持ちでいるのだろう。
(謝るべきは俺だろ)
こんなことになるなら、ライブに誘わなければよかった。
二人を取り囲んだスタッフらは、互いに顔を見合わせていた。予想もしなかった事態に戸惑っている様だ。
「とにかく保健室に運ぼう」
舞台上で声が飛んだ。
「そ、そうしよう」
その声に促されるように、スタッフの作る円陣は小さくなった。
輪の中心にいた樹は由依を抱きかかえるようして立たせた。しかし彼女の足はおぼつかなかった。
一度彼女を肩に担ぐようにしてから、背中に負ぶった。由依の手が樹の首にしっかりと巻きついた。
「一人で大丈夫かい?」
すぐ横でスタッフが訊いた。
「手伝おうか?」
続いて周りからも声が上がる。
「大丈夫です、この方が楽ですから」
樹は身体をまっすぐ伸ばしてそう言った。それから二、三歩しっかりした足取りを見せた。
人垣が一カ所だけ開いた。そこから舞台裏へと向かう。不思議と樹の心は落ち着いていた。
観客席を背にして歩き出すと、体育館がざわめいていることに思い至った。
彼らは去りゆく二人の姿を見て、笑っているのだろうか、それとも驚いているのだろうか。
しかし樹にとって、そんなことはもうどうでもよかった。今は由依を落とさないように歩くことで精一杯だった。
耳元で由依が喘ぐように呼吸をしているのが分かる。彼女と接触している背中が汗ばんでくる。
「由依、もうちょっとの辛抱だからな。頑張れよ」
樹は前を見据えたまま、声を掛けた。その声が果たして彼女に届いているのか自信がなかった。
しかし、何度も言葉を掛け続けた。むしろそれは自分自身に言い聞かせているのかもしれなかった。
体育館から保健室までは、かなり距離がある筈だった。しかし樹は無我夢中で、一体どうやって歩いてきたのか、まるで記憶がなかった。途中廊下で、人々の好奇の視線が向けられていた筈だが、それもまったく気がつかなかった。
気がつけば、樹は保健室の前に立っていた。