06
樹と由依は舞台裏でひっそり並んで座っていた。
舞台からはエレキギターが生み出す激しい音とボーカル、そして観客の歓声が入り交じって聞こえてくる。
樹は意味もなく天井を見上げた。
こんな薄暗い空間にも天窓から光が差し込んでいる。その白い光の中で細かいほこりが舞い上がっていくのを樹は見ていた。
自分たちは天に召されるのかと思う。いや、その前に裁きを受けなければならない。
これまで学園で目立たぬように暮らしてきた二人が今大舞台に立ち、生徒達の心に語りかけようとしている。果たして、そんなことが許されるのだろうか。
自分を落ち着かせようとすればするほど、むしろ心は高ぶってくる。今まで経験したことのない緊張感が樹を押しつぶそうとする。
手のつながった由依にそれを悟られないようにするのに樹は一生懸命だった。わざと胸を張り、堂々たる姿を崩さずにいた。しかし見えない震えが常に足元から這い上がっていた。
舞台に立つこと、人前に出て歌を唄うこと、それは何と度胸のいることなのか。さらに観客を沸かせるなど、自分には思いも寄らない。
しかし、隣のこの少女はこれからそんな世界を生きていく。
この際、自分のことはどうでもよい。由依がしっかり評価されれば、それでいい。
樹は由依の顔を窺った。薬が効いてきたのか、眠い目をわざと見開くようにしている。顔の火照りはどうやら引いているようだった。
「由依、大丈夫か?」
そんな言葉を何度掛けたことか。
「うん」
由依が小さく頷いた。何とかなりそうだ。
舞台上では、前の組の演奏が終わったところだった。まだエレキギターの余韻も冷めやらぬ体育館は、観客の拍手と歓声で満たされていた。
いよいよ、樹たちの出番である。
楽器を抱えたメンバー達が舞台裏に引き揚げてきた。どの顔もみな興奮している。誰もが自分に陶酔しているようだった。
「江坂くん、小林さん、ステージへ出てください」
スタッフの指示が飛ぶ。
「はい」
樹は小さく返事すると、由依の手を引いてステージへと歩み出した。
由依は足がもつれそうになりながらも後に続く。
目の前には何十という観客が広がっていた。
体育館の端から端までぎっしりと埋められた彼らの視線は、今や自分たちだけに向けられている。
もう後戻りはできない。やれるだけのことをやるだけだ。
不思議と場内は水を打ったように静まりかえっていた。先ほどまでの喧騒が嘘のようだ。
樹は由依の手を離すとアコースティックギターを構え、マイクの高さを調整する。
由依の方をちらっと見た。彼女はマイクにもたれかかるような姿勢で何とか一人で立っている。
(最後まで立ってられるのか?)
樹の脳裏に不安がよぎりながらもマイクに手を掛け、番号と名前を告げた。極度の緊張が声を震えさせる。会場の一部から笑い声が漏れた。
続いて由依も名前を口にした。
どこかで心ない者の罵声が上がった。
「すみませんが、小林さんは風邪を引いていて、本調子ではありません。どうかよろしくお願いします」
樹の声に会場がざわつき始めた。
そんな淀んだ空気を一掃するかのように、樹はさっさとギターを弾き始めた。
マイクを通し、ギターの乾いた音色が体育館に拡声する。目の前の小さな楽器が自分の手の動きに合わせて、身体を震わせるほどの大きな音で鳴っていた。
それは会場を埋め尽くす観客の耳へと届いている。彼らの感覚を揺り動かしているのは他でもない自分の演奏。
それは恐れ多くも神の領域へ足を踏み入れたように思われた。これは自分の仕事ではない。途端に恐怖感が生まれる。そして身体の自由を奪い去る。
樹は演奏をしながら違和感を覚えた。何かがいつもと違う。これまで幾度となく同じ曲を弾いてきたが、これほど満足できないことはなかった。
果たして、由依の方はどうだろうか。こんな酷い伴奏に上手く歌声を重ね合わせることができるのだろうか。
身体が硬直して、由依の様子を窺い知ることができない。心のゆとりがまるで消えていた。今このギターを弾いているのは、誰かさえも分からなくなってくる。
そして、由依の歌声が合流した。
いつもとはまるで違う音色だった。樹には別人の声に聞こえた。あの透き通る爽やかさが少しも感じられない。
口先から不明瞭な言葉が流れて来る。声量は一定ではなく、時に途切れ途切れになった。
もうこれは由依の声ではなかった。川で溺れた子供が必死に助けを求めているようだった。
樹は絶望的な気分に襲われた。やはり今の由依を舞台に立たせたのは間違いだった。後悔の念が一気に押し寄せた。
すぐにでもギターを弾く手を止めたい衝動にかられた。しかしそれでも由依は一生懸命に歌っている。伴奏を止める訳にはいかない。
由依の声が一瞬裏返った。もはや彼女に表現力などなかった。操縦不能に陥った飛行機が、ただ力任せに空を行くようだった。自分の意志で声を調整することすら困難に思われた。