04
由依の意志は固かった。
意識は朦朧としながらも舞台に立つことだけは譲らなかった。
正直なところ、由依がこんな体調でいつもの歌を唄えるとは樹には到底思えなかった。
しかしそれが彼女の望みなら止める訳にはいかない。
校医が言う通り、演奏前に彼女の体調不良を表明しておけば、聴衆の理解は得られる可能性もなくはない。何しろ彼女はプロの歌手を目指す身ではあっても、ただ高校生。大目に見てもらうことは、それほど無理な注文とは思えない。
そうなると、問題があるとすれば、むしろ樹のギター演奏の方。万全ではない由依の分まで頑張らなければならない。
樹は責任の大きさを実感するにつれ、足が震え始めた。ただ、それでもやり遂げなければならない。
「本当に大丈夫?」
樹は由依の顔をのぞき込むようにして、もう一度確認した。
由依は何も言わず、ただ二度、三度頷いた。
「じゃあ、ちょっと待ってて。教室からギターを取ってくる」
樹はそう言い残すと保健室を飛び出した。
廊下に出ると文化祭の賑やかな雰囲気が一気に押し寄せてくる。
保健室がこの校内で唯一、隔離された空間であることに気づかされた。
笑顔ではしゃぐ学生たちを縫うようにして樹は先を急いだ。誰もいない教室のドアを開け、ギターケースを担ぎ上げた。
窓からは体育館が見える。エレキギターやドラムが織りなす立体的な音響が空気を伝わって耳に届く。どうやらライブは始まっているらしい。
教室を出てすぐに、友人の一志と鉢合わせになった。
息を切らせ、ここまで辿り着いたという感じだった。
「おい、今までどこにいたんだよ?」
一志はいきなりそんな言葉を浴びせ掛けた。
「もう始まってるんだぞ」
「これから行くとこさ」
「で、小林さんはどうなんだよ? ちゃんと来てるか?」
どうやらクラスの誰かから彼女のことを聞いたらしい。
「ああ、ちゃんといるよ」
樹は安心させるように大きな声を出した。
「そっか、ならいいんだ。とにかく急ごう」
二人は並んで階段を下りた。
「実はさ、小林さんが退学になるって噂を聞いたんだけど」
そんな一志の言葉に樹は思わず足を止めた。
「どういうことだ?」
「何でも、校内でタバコを吸ってるとこを目撃されたらしいんだ」
「そんなのはデタラメだ。誰かが彼女を陥れようとしてるだけだ」
樹は強い調子で言った。その言葉は実は自分に言い聞かせているのかもしれなかった。
「さらに悪いことに、お前も一緒に吸ってたって言いふらしている奴もいるんだ」
馬鹿馬鹿しい話。あまりにも事実無根で樹は反論する気にもなれなかった。
「友人として訊くけど、本当に彼女は信用できるんだよな?」
「いい加減にしろよ!」
自然と怒鳴りつけていた。周りにいた学生や父兄たちが凍りついた顔で遠巻きに二人を見た。
「落ち着けって。それだけ、彼女の評判はよくないってことだ」
そう言って、一志は階段を先に下り始めた。樹は愕然とせずにはいられなかった。
(一体誰がそんなデマを)
まさに見えない敵。相手が人間ならば術もあるだろうが、得体の知れない噂ではまるで戦いようもない。
「お前も由依と会っただろ? 話しただろ? そんな悪い子に見えたか?」
樹は一志の背中に問いかけた。
「いや、そうは見えかった」
一志は振り返ることなく答えた。
「本当に来てるんだよな?」
一志は心配を隠せない様子である。
「ああ」
樹は口を開くのも面倒だった。今は由依のことをあれこれ話す気分にはなれなかった。
そして、思い出したようにギターケースを手渡した。
「悪いけど、これ持って、先に体育館へ行ってくれないか?」
「え? いや、まぁ分かったけど、すぐ来てくれよな」
一志は驚きながらも小走りに階段を下りていった。
樹は向きを変えて、保健室へ向かった。
扉を開けると由依はベッドに腰掛けて、校医と何かを話していた。
朝の様子と比べると随分と元気を取り戻したように見える。何とか舞台に立てそうだ。
樹は由依の顔をまじまじと見た。まだ少し熱があるのか、顔がほんのり赤い。
樹には由依の姿が霞んで見えた。
なぜか、自然と涙が湧いていた。それを彼女に悟られないように顔を逸らした。
由依にとって、このライブに出ることは本当に意味のあることなのだろうか。
このまま二人で逃げ出せたら、どれだけ気が楽だろうか。
「ちょっと強い薬を飲んだから、眠気が襲ってくるかもしれないけど、頑張ってね」
校医はそんな風に由依を送り出した。
「体育館まで歩ける?」
「大丈夫よ」
樹は由依に寄り添うように賑やかな廊下へと踏み出した。