03
由依は軽い寝息を立てて、カーテンの向こうで眠っている。
樹はその場から離れることなく、由依のことを考えていた。
小林由依。つくづく不思議な少女だと思う。
彼女は真面目に生きている。自分の才能を生かすべく、この歳で将来のことを真剣に考えている。
彼女には夢があり、それに向かって突き進んでいる。
しかし不幸なことに彼女を取り巻く環境はそんな彼女を暖かく見守ってはくれない。
ただ懸命に生きようとする彼女に構わなければよいものを、その才能に嫉妬するのか、はたまた性格が気に入らないのか、足を引っ張ろうとする。
樹はそんな悲運な少女に共感できる部分があった。
どうして学校は人を型に嵌めようとするのか。彼女のような生き方があってもいいではないか。
由依には強く生きてほしい。歌という唯一無二の武器がある。芸能界でその力を最大に発揮するには今以上に強靱な体力、そして精神力が必要となるだろう。
他人からの中傷や嫌がらせに精神が揺さぶられるようでは成功するには程遠い。
どのくらい時が経過したのだろうか。突然、カーテンの奥から人の動く気配がした。
どうやら彼女は目を覚ましたらしい。
カーテンが細目に開いた。
そのわずかな隙間から由依がこちらを窺っている。
由依の視線が樹の視線を掴んだ。すぐさまカーテンが力強く開かれた。
「樹くん」
かすれた声で由依が呼んだ。
「まだ寝てればいいよ」
「ライブはどうなったの?」
言葉がもつれるようだった。ベッドから降りようとする由依を樹は制止しながら優しく答える。
「またの機会にしよう」
それは真実味のない話だと樹自身も理解している。まもなく学校を去っていく由依に果たしてそんな時間があるだろうか。
でも彼女を安心させるにはそう言うしか思いつかなかった。
「まだ間に合うでしょ?」
由依はなおも続ける。
「うん、まだ始まってないからね」
「だったら出ましょう」
「その身体じゃ無理だよ」
樹は叱りつけるように言った。そうでもしないと、彼女が諦めそうもなかったからである。
「お願い、私はあなたと舞台に立ちたいの」
由依の声は上ずっていた。しかも涙混じりだった。
「今回は辞退しよう。その身体じゃ無理だ」
「少し横になったら、随分と楽になったわ。だから大丈夫」
由依は背中を丸めるようにして懇願した。その姿はまるで無力な愛玩動物を思わせた。樹の心は揺らいだ。
「私は歌いたいの!」
由依は一段と大きな声を上げた。樹の心の迷いは大きくなった。
今の調子では、とてもじゃないがいつもの歌が唄える雰囲気ではない。おそらく、舞台に立つのがやっとだろう。
由依の真意が計りかねた。
何故そこまで学校のライブに拘るのか。これはオーディションでもなければ、仕事でもない。単なる余興に過ぎない。身体を犠牲にしてまで、やらなければならない種類のものではない。
保健室は静寂に包まれていた。
さっきから二人のやり取りを見ていた校医も由依の激しい様子に圧倒されたようだった。少し離れた場所から傍観している。
「由依には悪いけど、今の状態じゃ、まともに唄えないよ」
樹はわざと落ち着いた声で言った。由依は途端に顔を両手で覆って泣き出し、嗚咽を漏らした。
樹にはどうすればよいか分からなくなった。泣きたいのは樹の方た。
「分かった、分かったよ」
由依の肩に手を掛け、軽く揺すった。彼女がこれほど取り乱しているのを初めて見た。
人前で、いやこの学校の学生を前にして歌うことは、それほど大事なことだったのか。それが歌手の卵である由依の意地というわけか。
彼女は肩を上下に動かして泣きじゃくっている。
もう樹の声も聞こえてはいないようだった。
「由依、もう泣くなよ」
そう言いながら樹も辛い気分になった。
由依の身体を思って決めたことが、彼女は受け入れられないらしい。互いの気持ちがすれ違うことにもどかしさを感じる。
樹は助けを求めるように校医を見た。
「演奏時間は?」
彼女は冷静に訊いた。
「4分ほどです」
「それなら、一応舞台に椅子を持って上がりなさい」
「彼女は大丈夫でしょうか?」
「声がまともに出るかどうかは分からない。けど、どうしても、と言うなら仕方がないわ」
「はい」
「それから、歌う前に観客に一言、断りを入れておいた方がいいわね。彼女は風邪で今日は本調子ではありません、ってね」
どうやら校医は呆れた顔をしながらも、心配をしてくれているようだった。