02
チャイムが鳴り、担任が教室に入ってきた。
教師は今日の予定を話すのだが、それを真面目に聞く者は誰もいない。今日は特別な日である。気の合う仲間同士、すぐにでも教室を飛び出したい衝動を抑えるのに一生懸命といった様子である。
そんなホームルームもあっさり終わってしまった。
生徒たちはそれぞれ弾かれたように教室を出ていく。
ついに由依は姿を現さなかった。
(どうしたんだよ)
樹の心配はピークに達していた。
もしかすると昨日の激しい雨に打たれ、体調を崩してしまったのではないだろうか。
彼女が自宅で寝込んでいるとしたら、学祭どころではない。出場を辞退し、今すぐにでも彼女の所へ飛んでいかなければならない。
「あいつ、人前で歌うのが怖くなったんじゃねぇの?」
「逃げ出したか」
教室を立ち去る生徒の中から、そんな嘲笑が聞こえた。
樹は反射的に声のした方を睨みつけたが、生徒たちは笑い声を残してさっさと出ていった。
誰もいなくなった教室で樹は椅子に座っていた。
窓からは派手な立て看板や忙しく動き回る制服が見えた。
すでに校門付近は外部からの来訪者でごったがえしている。
それは学祭の始まりを告げていた。
誰もがこの非日常的な瞬間に心弾ませているにちがいない。
そんな中、校内で不安を抱えているのは、きっと樹ただ一人であろう。
(どうしようか)
とりあえず、由依に電話をかけようとした時。教室のドアが控え目に動き出した。
半分ほど開くと、そこには由依の姿があった。
身体をくの字に折り曲げるようにして立っていた。自立するのも辛いのか、ドアにもたれ掛かるようにして身体を支えている。
まるで砂漠の中を命からがら歩き続けてきた旅人を思わせた。
いつもの由依ではないことは明らかだった。
「由依!」
樹は慌てて駆け寄った。周りの机がガタガタと音を立てた。
「遅くなって、ごめんなさい」
由依は喉の奥からひねり出すような声で言った。
そんなことはどうでもよかった。彼女の身体は正常ではない。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫」
蚊の泣くような声でよく聞き取れない。
目の前の顔は紅潮していた。目はうつろだった。
「熱があるんじゃないか?」
樹は思わず由依の額に手を当てた。
異常なほどの熱を感じた。
「とりあえず、保健室へ行こう」
この提案に由依は何も言わなかった。樹は彼女の肩を抱えるようにして廊下を歩き出した。
廊下の賑わいも、今の樹の目にはまるで映っていなかった。ゴムボールのように弾む生徒らの横をすり抜けていく。
相当な時間を掛けて保健室まで辿り着いた。
幸いにも校医が居てくれて由依に必要な処置をしてくれた。
「ベッドにしばらく横になっているといいわ」
由依にそう言い残すと校医はカーテンを閉め、樹と向き合った。
「先生、彼女は大丈夫ですか?」
「心配ないわ、ただの風邪ね。無理をしたから、熱が出ただけしょうね」
若い校医は樹を安心させるように、口元に笑みを浮かべて言った。
それを聞いて、心の重荷がゆっくりと解けていく感じがあった。
「もう行っていいわよ。後は私に任せて」
「いや、彼女の傍に居てやりたいので」
樹は慌ててそう返す。
「あら、でも今日は学祭よ。あなたも色々と見て廻りたいでしょ?」
「特に予定はないですから」
「そう?」
校医は少し驚いたようだった。
樹は今日のライブの出場を辞退するつもりでいた。由依がステージに上がれない以上、参加する意味はない。
二人は笑い者になるかもしれないが、そんなことはまるで気にならなかった。
それより心配なのは由依の容態である。
樹は由依と同じ部屋でカーテン一つ隔てて丸椅子に静かに座った。