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いよいよ学祭の当日を迎えた。
樹はあまりにも時が早く過ぎ去ったことを感じずにはいられなかった。
あの日、誰もいない海で由依とライブに出ることを約束した。それからギターの練習に追われる日々を送った。夏祭りには彼女から将来の夢を打ち明けられた。
全てはつい数日前のことのように思い出される。
これほど充実した生活を過ごせたのも由依のおかげである。本当に感謝せねばならない。
由依と出会う前はまるで川を流れる木の葉のように、時に身を任せるだけの人生だった。流れに逆らって泳ごうなど考えることはなかった。
けど今は違う。知らない内に時の流れに逆行しようとする自分の姿があった。初めて時間の経過と真剣に向き合っている。
ギターの練習時間がもっと欲しかった。自分の技量はまだまだ磨けるような気がする。
由依のことだってそう。生まれて初めて好きになった女性。由依に心を開いてもらおうと、いくら積極的になったところで、もはや時間切れ。
強い希望を持つ人間に対して時は何と無慈悲なものか。
しかし、それを言ってみても始まらない。
今、この瞬間を大切に生きよう。由依と一緒に居られることに感謝しよう。
そのためには、まずはライブを成功させることだ。
ここで持てる力を最大限に出し切ろう。楽器の腕前はさほど問題ではない。由依の歌声の邪魔にならなけりゃそれでいい。
そもそもこれは由依のためのもの。由依の歌声を学校中に響かせ、そして存在を正しく認識させること、それが樹の最大の目的。
ライブが終わったら気持ちを麻希に伝えよう。
どう応えてくれるか分からない。けど、このまま別れてしまうのは我慢できない。
由依の前では、由依の前だけでは彼女に負けないよう、積極的でいたいと思う。
樹はまだ完全に乾き切ってないケースを担いで自宅を出た。
日差しが眩しい。見上げると、昨日とはうって変わって、抜けるような青空がどこまでも大地と競い合っていた。
由依の歌声が今日、この大空に吸い込まれていく。空は遥か遠く、未来まで続いている。やはり今日のライブは彼女の第一歩に相応しい。
由依が芸能界へ進み、ある程度名が知れ渡ったらどうなるだろうか。居合わせた学生たちは、誰もがデビュー前の貴重な歌声を聴いたと自慢するだろう。
樹はそんなことを考えて、一人笑みを漏らした。
いつもと同じように教室の扉を開けた。ギターケースを少し持ち上げ気味に時間を掛けて自分の席まで辿り着いた。
学祭一色で授業はない。教室内は笑顔であふれていた。
しかし、樹の隣の席はぽっかりと空いたままだった。まだ由依は来ていなかった。
生徒が続々と座席を埋めていく。そんな中、隣の席だけは時間が止まっているかのようだった。
春、最初に由依と出会った日のことを思い出した。
あの日もこの席だけが空いていて、彼女は平然と遅刻してきた。
しかし、今日はあの日とは違う。
樹は今朝は彼女も早目に登校するだろうと考えていた。最終打ち合わせもある。何よりパートナーと意気投合することで、高まった緊張も解きほぐすことができる。
しかしいつまで経っても由依は現れなかった。
樹は途端に心配になった。
(まさか来ない?)
思い当たるのは昨日の一件。学校に嫌気がさしたということは考えられないか。
由依は芸能界の扉を叩こうとするほどの大物。そんな価値ある歌声をこの学校の生徒に聴かせる義理はない、そう思ったのではないか。
(いや、そんなことない)
由依一人が舞台に上がるわけではない。パートナーの樹がいる。そのことを忘れてしまうはずがない。
昨日、彼女は別れ際、頑張ろうと言った。作り笑顔ではあったが、確かにそう言った。
もし彼女が来ない気でいるのなら、それは樹に対する裏切り行為になるのではないだろうか。
しかし、これまで考えてもみなかったが、その可能性がないとは言い切れない。
由依が樹を特別な存在ではなく、単なる学校の生徒の一人として考えているのであれば、おかしいことではない。
もとより友達のいない彼女が、学祭を休んでも何ら不思議はない。
樹は隣の席を見ながらそんなことを考えた。
心が締めつけられるように苦しく、もはや居ても立ってもいられなくなってきた。