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いつしか雨の勢いは衰えていた。それでも霧雨が作り出す薄いカーテンは周りの景色を全て包み込んでいる。
樹は一人、ギターケースを抱えて家路を急いだ。
(中身。大丈夫かな)
今すぐにでも蓋を開けて確かめたくなる。
もう傘は差していなかった。身体中がすっかり濡れてしまった以上、傘の必要は感じられなかった。
(由依は大丈夫か)
さっきからそんな不安が押し寄せてくる。
(彼女の後を追わなくてよかったのか?)
(身体を気遣って、家まで送ってやるべきだったんじゃないのか?)
頭の中で自問自答を繰り返す。
そうしなかった理由は分かっている。
(由依はもはや俺を必要としていない)
それは時とともに、いつしか確信に変わっていた。
彼女に対して積極的になれない理由もそこにある。
樹は自分に自信が持てない。
由依との出会いは、無気力だった自分自身に一筋の光を与えてくれた。
充実した精神が芽生えた。
彼女との学校生活は驚くほどの勇気を与えてくれた。
ところが、由依は優れた歌の才能を持っていた。何の個性を持たない樹とは、まるで釣り合いが取れなかった。そして、彼女は芸能界という手の届かぬ所へ羽ばたこうとしている。
(お別れは確実に近づいてる)
ライブが無事終了すれば、彼女は姿を消すだろう。全校生徒の大きな拍手に送られ、学校を去っていく。
それは由依らしい幕引きに思われた。
そんな由依の前で樹は無力でしかなかった。彼女を引き留めることなど出来はしない。
玄関を開けると、身体よりも先にタオルでギターケースを丹念に拭いた。ゆっくりと蓋を開けると、雨水が内側に染みを作っていた。
しかし、幸いなことに本体にまでは雨水は達していなかった。
これは由依に感謝しなければならない。
本来なら雨晒しになっていた筈のこのケースを抱きかかえていてくれた。そのおかげで、ギターは無事だった。
階段を上がって由依と再会した時、まず一番にありがとうと言うべきだった。
そんな当たり前のこともすっかり忘れていた。
どうやら、由依を目の前にして、自然体ではいられなかったのだろう。彼女に捨てられる恐怖と戦っていた。
肌にへばり付いたシャツを剥がすように脱ぎ、熱いシャワーを浴びた。
寒さによって皮膚が萎縮しているのが分かる。熱湯がそれをほぐしてくれる。
(由依も無事に家に着いただろうか?)
樹は風呂から出ると早速ギターを構え、由依の曲を奏でてみた。
乾いた音が部屋中に響いた。
(うん。大丈夫だ)
ギターには何の問題もなさそうだった。
すぐにベッドに横たわると、天井を見上げ、由依のことを考えた。
(本当に芸能界に向いているのか?)
今回の一件で彼女は不安定な精神を露呈してしまった。他人の言動でたやすく心が揺れ動いてしまう。そんなことで厳しい世界を乗り切っていけるのだろうか。
芸能界は華やかでありながら、厳しい世界に違いない。毎年数え切れないほどの新人がデビューしては瞬く間に消えていく。
確かに由依の歌唱力は認める。しかし、それが成功につながると言えるほど甘い世界ではないはずだ。
由依のことはよく分かっているつもりだった。
もし彼女に再考を促すことが出来るとすれば、それは自分しかいないだろう。
しかし、彼女に人生のアドバイスができるほど、優れた人間でもない。平凡な高校生に過ぎない。
(由依の将来だ。彼女自身が決めるべき。だよな)
樹は大きなクシャミを二つした。ここで風邪を引いたら洒落にならない。慌てて顔までタオルケットを引き上げた。
(由依は今頃どうしているだろうか? 風邪、引いてなきゃいいけどな)
そんなことを考えながら、眠りに落ちていった。