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初めて出会った頃の挑戦的な目つきだった。
(まだそんな表情を見せるのか)
樹は寂しい気持ちになった。
(由依はまだ俺を信じてくれないのか?)
「いつだって私は人によく思われたい。いい子を演じようって心の中で思ってるの。本当は全然そうじゃないくせに、ハッタリだけで生きている」
「誰だってそういう面はあるよ。特に芸能人を目指してる君は、誰からも好かれたい、って気持ちが強いのかもしれないけど、それは自然なことじゃない?」
由依は複雑そうな表情を浮かべていた。
見当違いなことを口にしているのではないか、と樹は一瞬考えた。
しかし、そのまま続けた。
「俺は芸能界のことはよく分からないよ。でも、そこには味方もいれば敵だっている。陰口や嫌がらせなんて、ごく日常的なことだと思うんだ。それを一々気にしていたらさ、本当に自分がやりたいことなんてできないよ」
「そうかもね」
由依は諦めたように唇だけで笑った。
「さっきのあれは君のタバコじゃない。そうだろ?」
樹には強い自信があった。
(約束してくれた)
デビューを控えた由依がそんな愚かなことをするとは到底思えなかった。
「信じてくれるの?」
由依は震えた声で言った。
それが寒さによるものか、感情の高ぶりによるものかは分からなかった。
「帰ろう」
樹は由依の肩を優しく抱いた。体は氷のように冷たくなっていた。
このままでは風邪を引いてしまう。明日のコンサートのこともある。
「ギター、大丈夫かな?」
彼女はさっきからそればかりを心配しているようだった。ギターケースを抱えたまま、離そうとしなかった。
「いいよ、それは。そんなことより君の身体の方が心配だ」
こんな状況でもギターを気にしている由依がとても愛おしくなった。
「家まで送ろうか?」
樹は優しく訊いた。
「ううん、大丈夫。一人で帰れるから」
樹の提案を由依はきっぱりと断る。
「傘は?」
「大丈夫、これだけ濡れたら、あっても一緒」
由依は笑って言った。そう言えば、樹自身もどこかに傘を置いてきてしまったことに思い出した。
二人は階段を下りた。
雨粒がまるで針のように地面を鋭く刺している。
生徒たちは帰ってしまったのか、校内はひっそりとしていた。
「じゃあ気をつけてな」
樹は考えてから言った。
「うん。明日、頑張ろうね」
由依はそう言うと駆け出し、一度も振り返ることなく樹の前を去っていった。
強い雨しぶきが景色から全ての色を奪い去っていた。
それはまるで水墨画を思わせた。
雨の中を由依の背中が小さくなっていく。
寂しい背中だった。今彼女の背負う悲しみを一体どれだけ理解しているかは樹には分からない。
彼女を追いかけていきたかった。
しかしそんな資格が果たしてあるのか、樹は考え込んだ。
どんどん離れていってしまう由依の姿を目で追うのが精一杯だった。