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小林と別れた樹は一人歩きながら考えていた。花火に酔いしれた人のうねりは今ではすっかり消え、夜空だけが静かに彼を見守っていた。
虫の鳴き声が耳を捉えて離さず、それはまるで激しい雨のように迫ってきた。
(スカウトか……)
小林の言葉を聞いた時、樹の頭は真っ白になった。それほどの大物を相手にしていたのかと、全身が震える気がした。
確かに才能がある。それは素人目からも分かっていた。しかし、デビューを約束されるほどのものとは思ってもみなかった。
(そう言えば……)
ライブで歌おうとしているあの曲はひょっとすると彼女のデビュー曲なのかもしれない。以前、誰の歌なのかは知らない、と言っていた。あの時は違和感を覚えたが今思えば、まだ世間に発表されていない曲だから、あながち嘘ではなかった。
(どうするつもりだろうな)
自分の思い通りにすればいい。樹はそう言った。しかし、内心では芸能界なんて不確実な世界ではなく、このまま高校生活を共に過ごし、現実の世界に留まってほしいという願いも少なからずあった。
樹は小林とは一つのチームだと勝手に決めつけていた。彼女を支えてやるのは自分しかいない。そんな思い上がりがあった。笑止千万である。
小林は他人を必要としてはいない。今、自らの力で飛び立とうとしている。樹は立ち止まると道端の石ころを蹴飛ばした。それはどこか草むらへと吸い込まれていった。一斉に虫の声が止むと辺りは静寂に包まれた。
一呼吸おいてから、樹は月夜の道を再び歩き始めた。
(小林のこと誤解してたのかもな)
樹の頭に新たな思いが浮かんだ。彼女は学校生活で少しも孤独を感じてはいなかったのではないのだろうか、と。
彼女にはしっかりとした考えがあった。近い将来、芸能界へ進むには高校を中退せねばならない。当然、友人とも別れることになる。だったら最初から友人を作らないのが得策と考えたのではないか。彼女は敢えて孤独の道を選んでいたのではないか、と。
無意識に夜空を見上げた樹に無数の星が降りかかる。
(それでも想いを伝えるべきだったのかな。そして、行かないでほしいって正直な気持ちを言ってもよかったのかな)
正解の分からない問題を抱えたまま樹は家路へと急いだ。
小林との音合わせを数日後に決め、樹はまた一人ギターの練習を再開した。
しかし、今までのように身が入らない。小林はライブでデビュー曲を披露し、みんなの前から姿を消すような気がしていたからだ。しかし、それは彼女に相応しい幕引きなのかもしれない。
樹は彼女に振り回されてばかりいるように思えた。彼女が学校生活に溶け込めるよう、ライブへの参加を提案したというのに、最初から学校を辞める気でいたなら、それも必要なかったということになる。
樹はギターをケースへ仕舞った。
「どうすりゃいいんだよ」
煮え切らない感情が溢れ出ていた。
次の日、ポストに一枚のハガキが入っていた。それは小林からの暑中見舞いだった。表には住所が書いてある。いつか彼女と行った海近くの町だった。
裏を返すと風鈴とスイカの絵の横に見覚えのある文字で言葉が添えてあった。
『ギターの調子はどう? ライブうまく行くといいね。夏祭りはとても楽しかったよ。いい思い出になりました。本当にありがとう』
(いい思い出……か)
樹はハガキを持ったままやるせない気持ちになった。やはり、彼女は芸能界に進むことを決意したのだろう。いい思い出というのは、芸能界に入る前の最後のいい思い出ということなのだろう。
小林の心は確実に動き出している。彼女は一人で立派に自分の道を歩き出した。樹の力に頼る必要などない。
ライブに出場することに果たして何の意味があるのだろうか。樹は彼女を誘ったことがひどく惨めに感じられた。
小林は普通の高校生として人生を送るような人間ではない。もっと大きな夢が待っている。
(しっかり芸能界へ送り出してやろう。そう、彼女を愛している俺だからこそ。それを全うする義務がある)
樹は吹っ切れた様に心が軽くなる気がした。
(ライブが最後の思い出になるのなら、それをよりよいものにしなけりゃならない。それが俺の責任だ)
樹はハガキを机の隅に立て掛け、ケースからギターを取り出した。
(もっと練習しよう。それで、学校中の生徒の拍手で彼女を送ってやろう)
萎れかけていた樹の心にもう一度、熱いものが宿っていた。