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「えっ、芸能界?」
あまりにも唐突な言葉に樹の思考は追いつけずに自然とオウム返しとなった。
「そう」
小林は大きく頷いた。その顔にはいたずらっ子のような表情が浮かんでいた。何かの冗談なのだろうか。
「それって、本当の話?」
「一応は本当。でもまだ、正式に決まった訳ではないの」
樹の頭の中は混乱していた。ただ漠然と小林と離ればなれになる運命を想像していた。
「いつ、デビューするの?」
「まだ決まってない」
「どういうきっかけで?」
「スカウト。中学の時に」
(あぁ……なるほどな)
樹は小林の答えに納得した。そういうことなら歌の上手さも合点がいった。
芸能界という遠い世界がこれほど現実味を帯びてくるなんて樹は考えたこともなかった。身近でこんな話が沸き起こることもあるのだと少々感慨深くもなった。
しかし、まだ分からない点もある。確かに小林は整った顔立ちをしているし、歌声だって普通の高校生とは思えないレベルにある。それらは確かに芸能界で通用するのかもしれない。
だが、性格面はどうだろうか。彼女は人と交わるのが決して上手な方ではない。果たしてそれで芸能界を渡り歩いていけるのか。
(いや、違うな)
樹は思い直した。これから芸能界へ進むことでどのみち学校を辞めることになる。だからこそ学校ではあんな振る舞いをしていたのかも知れない。友達を作ろうとしなかった理由もそこにある。
これまでの彼女の不思議さも少しは説明できるような気もした。
しかし、どうして小林はこんな話をしてくれたのだろうか。どんな反応を期待しているというのだろうか。
樹は思考がまとまらず、もうこれ以上に掛ける言葉も見付からなかった。
「はぁ、なんかすっきりしちゃった。あなたに隠し事するのはどうも後ろめたい気がして」
小林は夜空を見上げて言った。樹には長い髪の横顔は今までとはまるで違って見えた。
芸能人という自分とは無縁の資質を持っているからに違いない。
「家族は知っているんだろ?」
横顔に樹はそう投げかけた。
「うん、家族には言ったわ」
「反応は?」
「両親は一応賛成みたい。好きにしなさい、って」
「双子のお姉さんは?」
「猛反対。あなたには向かない、だって」
「ふうん」
顔のよく似た双子の姉。彼女は今、どんな気持ちでいるのだろうか想像も出来ない。
「でも、お姉ちゃんの言うことは正しいかもしれないのよ」
意外な言葉だった。姉の意見を素直に受け入れるというのは随分と慎重な態度である。普通なら他人の忠告に耳を貸さず、一人で突っ走ってしまうところだ。
「家族以外には言ってないの?」
「えぇ。あなたが初めてよ」
樹は嬉しいような、寂しいような複雑な気分になった。確かに打ち明けてくれたことは素直に嬉しいのだが、やはり手放しで喜ぶことができない。彼女が雲の上の世界に行ってしまったら、もう会うことさえままならない。
「でもさ、中学でスカウトされたんだろ? どうしてすぐに行かなかったの?」
「そのまま東京に行ってしまうのが、何だか怖くて。地元で高校生活をちゃんとしたかったの」
小林の言葉に一つの疑問を生んだ。
(芸能プロダクションってのは、そんなに待ってくれるものなのか? 他にも才能ある若い子はたくさんいるだろうに。なぜ、小林なんだ?)
「それで、君としてはどうなの? やっぱり芸能界に入りたいの?」
樹はややぶっきらぼうに訊いた。今の気持ちがそのまま表れてしまった様だ。
「あなたはどう思う?」
しかし、小林は逆に訊き返してきた。小林の人生なのだから自分で決めればいいと思える。他人にあれこれ言う権利もない。だが、もし小林がいなくなってしまったら、それはそれで寂しさもある。
今、学校生活の中で芽生えた心の充足感もあっという間に消えてしまうだろう。それだけは充分に想像出来た。
「俺には芸能界なんて未知の世界だし、何のアドバイスも出来ないよ。けど、君がやりたいと思うことを正直にやればいいと思う」
小林は頷いて聞いていた。
「分かったわ。今日はどうもありがとう」
そう言って先にベンチから立ち上がった小林の表情は見えなかった。
それが落胆なのか、笑顔であったのか。声色からも樹には計れずにいた。