06
教室に戻るとちょうどチャイムが鳴った。体育の後の休み時間というのはどうも短く感じられる。女子は着替えに時間が掛かるのか、まだ誰も戻ってきていなかった。
それでも日本史の教師は何食わぬ顔で授業を始めた。しばらくして女子が次々と教室に戻ってきた。しかし、隣の席だけは時間が止まったかのようだった。
(小林、どうしたんだろう?)
樹は心配になった。ボールが顔面を直撃したので保健室で休んでいるのかもしれない。
(何事もなければいいけどな)
日本史の授業は板書の量が半端ない。教師は喋りながら次々と黒板に書き付けていく。樹は小林の分も取ってやることにした。
自分のノートの一番最後を丁寧に破り取り、同じことを二回づつ写していく。樹は教師の言葉を聞きもらさず、必死にノートを作った。こんなに真剣に授業に臨んだことは今まで一度もなかった。
黒板が何度か消され、二枚の紙にびっしりと文字が並んだところで小林が戻ってきた。腕に湿布が貼ってあった。顔の半分が薄っすらと紫色に染まっている。
教師に軽く会釈し、自分の席に静かに腰を下ろした。彼女は周囲の視線を遮るように片手で顔を覆い、もう片方の手でぎこちなく教材を準備した。
樹は破ったノートを彼女に差し出した。
「これ、ここまでの板書」
樹は優しい言葉の一言でも掛けてやろうかと思ったが、どうもそれは望んでいない気がして言わなかった。
小林は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに小さく微笑んだ。
「……ありがとう」
それは初めて見る笑顔だった。少し痣のある顔には気取ったところがなく、自然な優しさに溢れていた。
(こんな顔で笑うんだ)
樹は少々意外に思い、たちまち心の中に温もりを感じた。小林に対し、間違ったことをしていないという自信が湧いた。
その後、小林は一度も樹の方を向かなかった。次から次へと流れていく黒板を自分のノートに受け止めていた。それはいつもの彼女だった。
(なんとなく分かる気がする)
小林の横顔を見ながら誠はそう思った。中学時代、引っ込み思案で目立たない存在だった樹は周囲から、消極的だ、無気力だ、などと言われ続け、そんな自分は人より劣ると決めつけていた。挙げ句の果てに自分自身が嫌いになっていた。
しかし、それは違った。自分だって毎日を精一杯に生きていた。たとえ人より優れた結果が出なくても、確かに日々を生き抜いていた。地味な人間も派手な人間と何ら変わりない。内に秘めたささやかな感情や主張もちゃんとある。それが周りの騒音にかき消されて、聞かせることができないだけのこと。
樹はいつしか小林をいつかの自分と重ねているのかもしれなかった。