01
 季節は春を迎えていた。


 高校に続く坂道には桜の花びらが無数に乱れ飛んでいる。それは無事入学を果たした新入生に拍手を送っているかのように思えた。

 時折吹く風は少々冷たいが、空は抜けるように青く、新たな出会いを演出するに相応しい風景だった。


 高校二年生の江坂樹はそんな坂道を無感動に登っていた。目の前には去年と同じ光景が広がっている。

 樹の周りにはまだ慣れない制服を身にまとった後輩たちがどこか緊張した面持ちで高校を目指している。自分も去年はこんなふうだったのか、などと考えた。

 新入生らには脇目も振らず、ただまっすぐに歩いていく。希望の中にも、不安が大きく影を落としているのか、心にゆとりが感じられない。彼らはただゴールまで突き進む競歩の選手のように思えた。

 一方、上級生はこんな風景を目の前にしても気分が高揚することなどない。あるのは、日々の惰性と適度な怠惰だけ。

 友人と並んで登校する生徒はどうしても歩くのが遅くなるようだ。楽しい時間を少しでも長く共有しようと考えるのだろう。

 樹はそんな彼らの間を縫うように先を急いだ。慌てる理由など特にないが、孤独であることが彼の歩みに速さを与える。


(何も俺に限ったことじゃないか)

 一人寂しく登校する者は、その場を早く去りたいのか、どんどん歩いていく。その歩き方はどこか新入生と共通するものがある。


 そんな樹のすぐ目の前に女子生徒の後ろ姿が現れた。長い髪を後ろで束ねている。

 彼女は一人でいるにも関わらず歩くのが遅かった。まるで周囲を確かめるかのように、ゆっくりゆっくりと進んでいた。

 不思議な少女だった。

 明らかに新入生だと思われた。坂道を埋め尽すほどの桜に圧倒されているのだろうか。

 それにしても彼女の歩みは遅い。まるで小学生が通学路で目にする物に心を奪われ、立ち止まっては進む、そんな感じだった。

 樹はそんな彼女をあっさりと追い越した。同じ高校生でありながらまるで勝負にならなかった。


 少し先に進んでから、樹は何気なく後ろを振り返った。慌ただしい朝にフラフラ歩いている新入生の顔をちょっと拝んでやろうという気持ち。

 彼女の姿は遥か後方になっていた。

 意外にも大人びた整った顔つきをしていて、年上にも見える。

 その反面、背はやや低い。すらりと伸びた足はもつれるような動きをしている。

 彼女は舞い降りてくる桜の花びらに一々気を取られているようだった。次の瞬間、その姿は制服の波にすっかり飲み込まれてしまっていた。






 樹は新しい教室に入った。この日は新学期の初日。残念なことに、数少ない友人達は誰一人として同じクラスになれなかった。


 教室は一年で最も騒がしい朝を迎える。同じ組になれた喜びを身体全体で表現する女子や、隣の教室から激しく出入りする男子らで賑わっている。

 そんな教室に収まりきらぬ騒音の中、樹だけは静かに指定の座席に腰掛けた。窓際の一番後ろの席からは校庭が見下ろせた。学校を取り囲む桜の木々が見える。

 しばらくして、新しい担任が姿を現した。すると、それまでの喧騒が嘘のように消え去った。こうやって学年最初のホームルームが始まる。

 ふと隣の席に目をやると、そこはまだ、ぽっかりと無の空間が陣取っていた。教室を見回しても、空席はまさにここだけだった。


(この席は空席か? まさか、初日から遅刻してくるのか?)


 担任もその異変に気づいたようだったが、名簿に目を落とし、早速出席を取り始めた。

 10人ほどの名前が流れた後、突然教室のドアが開け放たれた。その音はクラス中の視線を集めるのに十分過ぎた。

 一人の女子生徒が立っていた。

 足が長いが、やや背の低い彼女は顔立ちがはっきりしていて、大人の女性を思わせた。口を真一文字に結び、教室の奥を睨むような目をしている。いや、それは窓から差し込む光が眩しくて、目を細めているだけなのかもしれない。


(……あ)


 樹は驚いた。彼女はまぎれもなく、今朝、追い抜いた少女だった。まさか自分と同じ学年だったとは思いも寄らなかった。

 教室は水を打ったように静かになった。彼女の出現に誰もが呆気に取られている。

 担任が座席を指示すると、彼女は歩き始めた。明らかに樹の隣の席へと向かってくる。そんな彼女の動きを見守っていたら、とうとう最後には視線がぶつかってしまった。

 彼女の目はひどく挑戦的に映った。樹は慌てて目を逸らした。

 彼女は初日から遅刻したことを、まるで詫びる様子もなく、毅然とした態度で席に着いた。教室のどこかで彼女への悪口ともとれる、囁くような声が漏れていた。

 机の上に置いた学生鞄には、金属製の可愛らしいネームタグが付いていた。

 そこには『小林由依』という文字が刻印されていた。




希乃咲穏仙 ( 2022/04/16(土) 00:01 )