09
その日の音楽室には男女混声合唱の歌声が響いていた。
樹のクラスでは8月の末に開催される文化祭で発表する合唱の練習が始まっていた。現段階ではまだクラスの歌声は一つにまとまっていない。各自が独りよがりに声を出すだけでハーモニーは生まれない。
練習をしていて樹はおやっと思った。隣で歌う小林の声が驚くほど透き通っていたからだ。明らかに彼女の歌声は澄んでいる。まだ多少抑え気味ではあるものの、その声に確かな存在感があった。樹は自分にはない才能を感じていた。
その後、男女に分かれて数人のグループで発声練習をすることになった。その時も小林の声は他の者を圧倒するほど伸びていて、歌に主張が感じられた。
「小林さん、ちょっとお手本に一人で歌ってみて」
その才能に気付いた音楽教師も小林にそう要求した。教師がグランドピアノを奏で、その旋律と融合するかのように、小林の歌声が見事に重なる。彼女の歌は既に一つの完成型の域に達して、もう練習する必要もない程だった。
彼女の歌声を前にクラスの誰もが言葉を出せなかった。その美しい歌声にただただ驚くばかりだった。
歌い終わるとどこからともなく拍手が沸いた。みんなが顔を見合わせ、口々に小林を称えた。
小林には素晴らしい才能があった。
「歌が上手いんだね。びっくりしたよ」
授業後、音楽室から教室に戻ると樹は小林に声を掛けた。その言葉を聞いた時、小林の反応は明らかにいつもと違っていた。その言葉をきっかけに、彼女の中で何かが動き出したようだった。
「そうかな?」
彼女は照れ隠しのように無感動を装って言ったが、樹に向ける笑顔はそれを隠しきれていなかった。それは、樹の言葉が彼女の心を揺さぶっているのを示していた。
「中学時代に合唱部に入ってたとか?」
「ううん、入ってないよ」
小林は尚も嬉しそうな顔で首を振った。
「小林さんはいいよな。歌って特技があるからさ」
それはお世辞でも何でもなく本音だった。
「でもね、私、他に何の取り柄もないから」
「いやいや、ホントに何もないのは俺の方だよ」
これも本音だった。小林には綺麗な歌声がある。それに比べて樹には人に誇れるものが何もない。正直、小林が羨ましかった。
(小林は人前でもっと自信を持つべきだ)
樹は小林の顔を見つめてそう思った。