01
ここに一枚のメモがある。どうやら手帳かなにかの切れ端のようだ。相当に慌てていたのか、勢いよく破っている上、乱れた文字で次のように書いてある。
『小林由依が好きだ。由依を忘れない、忘れたくない』
江坂樹はメモを手にしばらくその意味を考えた。ボールペンで書かれた文字は長年の歳月を経て、滲んでしまっている。それでもこれは確実に自分の筆跡であることに疑う余地はなかった。
問題はその内容である。樹はこの短い文章を反芻し、ついには声に出して読んでみた。
しかし、この文章が何を意味しているのか、さっぱり分からない。
どれだけ過去をたぐり寄せても、この小林由依という人物にまるで心当たりはなかった。
この人物は一体誰なのか。
文面通りこれが自分の恋した女性の名前だとしたら、今も覚えている筈である。しかし、『小林由依』という四文字は何も心に訴えかけてはこない。
ひょっとして、これは芸能人か、あるいは小説や映画の登場人物の名前ではないだろうか。そんなことをふと考えてみる。
いや、それはあり得ない。樹は即座に否定した。
そんなものをなぜ紙に残しておく必要があるというのか。
それに引っ掛けるのは、『忘れない、忘れたくない』という部分。ここには切羽詰まった状況を感じる。やはりこれは架空の人物なんかではなく、身近にいた人物と考えるのが自然である。
そうなると、どうしてそんなに大切な人を忘れてしまっているのかが分からない。
結局、謎は堂々巡りするだけで、答えに辿り着けそうもなかった。
樹は明日に高校の同窓会を控えていた。
それで10年ぶりに再会する仲間の顔と名前を確認しておこうと、押し入れの奥から卒業アルバムを引っ張り出していた。
そのアルバムの表紙を開いた途端、ひらひらと木の葉のように落ちたのがこのメモだった。
高校のアルバムに挟んであったからには、やはり高校時代の知り合いの名だろう。
そう考え、アルバムを最初から最後まで、穴が開くほど見返した。
しかし、ついに小林由依という名前は発見できなかった。彼女はどうやら公式のアルバムにさえ、見放されたらしい。
それか先輩か後輩の名前だろう。そうなれば、ここでは調べようがない。明日、同窓会の出席者に心当たりがないか訊いてみようか。
考えれば考えるほど、気持ち悪くなってきた。名前も忘れてしまう女性を好きだと言っている過去の自分が、ひどくいい加減で腹立たしく感じられた。