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声をかけようとする俺に気付いた柚菜は慌てて逃げようとしたけど、いくらなんでも俺が柚菜に追いつけないはずがない。
俺は背を向けようとする柚菜の右腕を掴み、逆の手で肩を押さえた。
柚菜は必死に声を抑えながら、それでもなお逃げ出そうとする。
「逃げることないでしょ、ちょっと落ち着こうよ」
出来るだけ優しい声を出したつもりだ。ついでに掴んでいた腕や肩も即座に離し、低い柚菜の視線の高さに思い切り腰を落として視線の高さを合わせた。
妹との長い付き合いの中で学んだことだ。視線が高いとそれだけで相手は威圧されるように感じて反発する。話を聞いてもらいたいなら、目の高さを合わせるのは必須。
「迎えに行こうと思ったら囲まれちゃった。けど大丈夫、あの人たちは大丈夫だから。な?」
息が切れそうになるのを強引に押しとどめ、俺は自分の限界に挑戦するくらいの努力で小さくて柔らかい声を絞り出した。
実際に出せてたかどうかは分からないし、全然知らないこのクラスでも、変な注目を浴びてしまっているけど、それを気にしてる事態でもない。
とにかく一秒でも早く柚菜の心を開かせておかないと、多分また心を開いてくれるのに恐ろしく膨大な時間と労力が必要になる。そんな気がした。
柚菜は顔を俯むけたまま、しばらくじっとしていた。
一瞬でも全力疾走した後に、じっと腰を落とした姿勢ってのは実はかなり辛かったりする。俺がその姿勢に早くも耐えられなくなってきたあたりで、柚菜は静かに顔を上げた。
俺とわずかに目が合う。そして、すぐに下げられたけど、それは俯いたというより、いつもの柚菜らしく、目を合わせたがらない癖が出たようだった。
「……ごめんなさい……」
「なんで謝るのさ。柚菜は悪くでしょ」
思わず俺は伸びあがりながら言った。
「さ、ご飯にしよう。一緒にいてくれるんでしょ?」
何事もなかったかのようにあえて気楽な感じで言うと、柚菜は小さく頷いてくれた。
助かった。
心底ホッとし、弁当を取りに教室に戻ると当然ながら注目の的になった。野次馬の視線は別にいい。いや、よくはないけど、まだいるお姉さま’Sの視線が痛い。
「あっれぇ、あたしら完全にシカトされちゃってた?」
「おっかしいよねぇ、守ってあげようってぇ、わざわざ来てあげたのにさぁ」
「ねぇ、なんか私たち以外の女の子を追いかけて行っちゃったよこの子」
「ちょっと許されなくね?」
などと口々に言っている。けど、怒って様子もなく、その目は完全に面白がっている時のそれだった。
「……察してくださいよ」
俺はもうどうでもよくなって、間違いなく苦笑以外には見えない顔をしながら言った。
「カノジョ、いないんじゃなかったっけ?」
一人がそう言うから、面倒くさくなった俺は素直に言ってしまうことにした。
「いませんでしたよ。昨日までは」
「へー、今日からはいるんだ」
「えぇ、おかげさまで」
聞き耳を立てていた野次馬たちがどよめく。
そして、ヒソヒソと噂話を始める。彼女いない歴イコール年齢だった俺がいきなり派手なお姉さまに囲まれるわ、彼女います宣言するわだから、そりゃ噂にもなりますわな。
お姉さま’Sは俺があまりに素直に認めたからか、からかう気にもならなかったらしい。
「そりゃ残念」
「なーんだ、できちゃったかー」
「フリーだと思ったから優しくしてやったのに、裏切られちゃったね」
「まー、それはしゃーないじゃん、妬くな妬くな」
口々に言いながら、意外にも俺に絡むことなく教室から出て行こうとした。
「でも、まぁ」
一人が俺に人差し指を向けた。
「その娘に振られたらさ、いつでもおいでよ。お姉さまがじーっくり慰めてあげるからさ」
きっと美波さんと知り合う前の俺なら舞い上がって身動き一つ取れなかったと思う。
でも、美波さんと知り合って、色々と珍しい経験をして、さらに柚菜とも色々あって、短い間でそれなりに成長してたのかもしれない。
「そうならないように努力します。ありがとうございます」
すっとそんな言葉が出た。
お姉さま’Sは俺の様子に何かを感じたらしい。
「がんばりなよー」
「泣かすんじゃないぞ」
「ここまでしといて泣かしたらリンチっしょ」
「面の皮はがしてやるっての」
何やら恐ろしい言葉を吐きながら、それでも笑顔で去っていった。
そして、残された俺は野次馬たちの質問攻めにあう前に弁当を持って、とっととこの場を逃げることにした。