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荷物持ちにくたびれ果てた俺が、ようやく座り込むのを許可されたのは、さらに電車で移動した新宿のカラオケ店。
何故カラオケのために新宿まで来なきゃいけないのか、理解に苦しむが、言われるがままついてきたのは俺。文句を言うのは遅すぎた。
「渋谷っていまいち好きじゃないんだよねー」
路線を選ぶ時に美波さんが言った。そういう問題じゃない気がするんですけど。
「よっしゃ、歌うぞー」
店に入る前からやる気満々の美波さんは、いい加減疲れ果てた腕を擦りながらへたり込む俺の事なんか眼中にない様子で、さっさと曲を選ぶとさっさと歌い始めた。
その選曲がまたすごかった。
最初に入れたのは、椎名林檎の名曲。歌舞伎町の女王。
いや、いくら新宿だからこの選曲はあまりに安直過ぎやしませんかね。
『セミの声を聞くたびに』から始まる歌い出し。多分、上手いんだろうな、とは思っていた。
この場合の上手さってのは、音程を外さないこと。その歌手のクセを完コピすること。要はカラオケレベルの上手さって事だろ?
でも、ちょっとこれは想像を超えていた。
美波さんはいきなり歌い出しから自分の世界を展開してきた。
喉や口で音程を操る、上手いけど素人臭いカラオケ名人の歌い方じゃなかった。吐き出す空気の量や圧で音程を操って、声量と音程のバランスで聞かせる迫力のある歌い方。
腹式呼吸までできているらしく、喉を絞って声を出す素人の歌い方とはかけ離れた歌い方だった。
いやいや、ちょっと待てって。なんなんだこの人は。
美波さんの普段の声は潤いのある落ち着いたアルトというところで、ちょっと大人びた色気がある。そんな風に表現してもいいと思えた。
美波さんの歌声は明らかに今まで聴いたことがあるどんな声とも違っていて、上手いとか下手とか、そういうレベルじゃ無かった。
ただただ圧倒された。一曲目からただただ。
「今夜からはこの街で 娘のあたしが女王」
最後のファルセットまできっちり歌い上げて、美波さんは静かにマイクを下ろした。
「す……すげっ」
素直に拍手をしていた。
「あら? やっぱりー? 私って天才っぽくってさー」
わざとらしく胸を張ってみせる美波さんは明らかにツッコミ待ちだったけど、そんな照れ隠しに付き合う気を失うくらい、この人の歌はすごかった。
「マジで天才かも」
本物のアーティストが目の前で歌ったら、もっと感動するんだろうか。それとも、この人はそういう人々と同レベルにあったりするんじゃなかろうか。なんという無敵超人。
俺が非常に素直に褒め称える拍手をしたせいか、美波さんは急に態度を小さくした。
「いや、あのさ、素で褒めないでくんない。なんか、すごい恥ずかしいんだけどさ」
困ったような顔で笑いながら、俺からちょっと離れた所に小さくなって座った。
「いや、だって、俺、カラオケでこんなに感動したの初めてですよ」
「だから言うなって」
美波さんはタッチパネルのリモコンを俺の方に突き出す。顔を思いっきり下げているけれど、多分赤くなっている。
「とっとと選んで歌いやがれ」
「えー、歌いにくいですよ、あんなん聞かせられた後は」
「バカ、カラオケなんてノリと勢いでしょ」
「俺が歌うより、美波さんが歌ってるの聞いてたいんですけどね」
「いいから選べって。命令だぞ、お姉さんの」
ぐりぐりと体にまで押し付けてくるから、仕方なく選曲を始める。
そうは言っても、歌えるレパートリーなんて限られているし、あんなの聞かされた後にまともな曲なんか選べるはずないんですけどね。