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気まずいと思ったのは俺だけじゃないはず。でも、意外と梅澤先輩は大人だった。
「あれ、どしたの、そのかっこ?」
気さくに声をかけてきた。
多分、何もしていない休日なら、俺は声も出せずに狼狽えていただろう。そんなに外向的な質じゃないし、ただでさえ美人の前では舞い上がってしまうのが男の哀しい性。ましてや昨日のこともある。
でも、この日は仕事中でさんざん声を出している。冗談を飛ばしながら仕事をするのが木嶋組のモットーだから俺もそんなモードに切り替わっていた。つまり、会話して当然という気分になっていた。
「どう見えます?」
下は作業ズボン、上は長袖の作業用シャツという姿はどう見たって土木作業員だろう。
「ガテン系の奴隷労働者?」
すごい表現を使ってきた。
「奴隷って……ま、そんなもんです」
間違ってはない。使いっ走りのガテン系アルバイトくんだしな。
「バイトかなんか?」
「ええ、バイトです。すぐそこに現場があって」
「あ、もしかしてその道の下のところ? 水路の工事してる」
「当たりです。よくわかりましたね」
「いや、だって近所だし」
梅澤先輩がノーメイクだということにこの時気付いた。ギャル系だから化粧が濃くて、すっぴんじゃ顔がわかんないだろうな、なんて思ったけど、意外に昨日とあまり変わらない。だとすると、ごく薄いメイクであれだけ目立っているということか。
いや違う、順番が逆だ。ノーメイクでこんなに綺麗な顔してるってのは、相当すごいんじゃなかろうか。
とか何とか考えつつ、へえ、この辺なんですか、と生ぬるい返事をする。
「まだ暑いのに大変だよねぇ。もしかして夏の間とかもずっとここで働いてたり?」
「そうでもないですよ。あちこちの現場行ってたし」
「そうなんだ。もしかしたら知らずに通り過ぎてたかも、なんて思ったんだけど」
「そんなに近いんですか?」
「だからすぐそこだってば」
昨日とは違うブレスレットのかかった腕を上げ、梅澤先輩が外を指差した。その指は長くて、綺麗だった。
えらく不思議な感じがした。
つい昨日までは話す事はおろか正面に立つことすらあり得ないと思っていたあの梅澤先輩がこうして俺と話している。
と言うより、梅澤先輩みたいなタイプの人と話すことが人生にあるなんて考えたこともない俺が妙に落ち着いて、ごく普通に話している。
「梅雨とか台風の時って、あの辺すぐに水浸しになってたんだよね。工事で水路が出来たら、少しはましになる?」
「なると思いますよ。水路と川との合流も付け替えで改善されたし、水路の掃除だけちゃんとやってくれれば、簡単には溢れませんよ」
「へぇ、助かるわ」
ここまで話したところで、俺たちは立ち話を中断した。
店が混んできた。
そりゃそうだ、昼時だしな。
弁当なんかが置いてあるコーナーで立ち話していた俺たちは、どうみてもでかい障害物。先輩はたぶん170近い身長だし、俺も180近くある。2人とも細身だけど、横幅はないから邪魔にはならないってことはない。
「とりあえず、レジ済ませよっか」
「そうですね」
梅澤先輩と俺は同時に苦笑いを浮かべた。
その後、梅澤先輩と話すことなく、使いっ走りの任務を無事に完了した。
近くにある木陰でから揚げ弁当を食べ、土木工事の現場では欠かせないお昼寝タイムに突入。
弁当のごみを片付け、さてゴロリとしようかなってタイミングで木嶋組で顔なじみになった作業員に声をかけられた。
「マー坊、お前、なんかいいことでもあったか?」
「はい?」
「いや、妙に機嫌よさそうな顔してるからよ」
「別に、特には無いっすけど」
大あり、だったんだろうな。
美人の先輩と親しく話すというシチュエーション自体が俺にとっちゃすごい幸運だった。けどそれは大きな問題じゃない。
気が合わなさそうで、顔を合わせる機会がこれからもあると思うと、ずーんと気分が沈んで行くような感じの梅澤先輩とああしてごく自然に話せたのが嬉しかった。
なにか、頭の上にぶら下がっていた石が取り除かれ、いつ落ちて来るか気が気じゃないという状態から解放されたような、ほっとした気分も混じっていた。