終章
25
 年明けて1月。センター試験も終わり、あやめは受験に一区切り付いた。

 春からは県内の大学に通うことになった。センター試験は学校の方針から全員受験と決まっていた。しかし、合格を決めたあやめには何ともつまらないものだった。


 母親は散々文句を言っていたが、合格を知るとヒステリーも治まり、すっかり穏やかになった。おそらく受験のストレスがあやめでなく母親にきていたのだろうかと思われた。




 あやめはいつもの様に部屋でロックを聞きながら、丸裸の桜の枝を眺めるのが日課になっていた。週に数回は近所のコンビニでバイトをし、2月になったら車の免許も取ろうと考えていた。すべてが上手く行っているように思われた。


 ただ、あやめの頭の中には一つだけ忘れられないことがあった。

 そう、シュウジのことだ。玲香の結婚報告を聞いてから一度も会っていない。もし、会ったらあやめは自分を抑えることができないと思っていた。だから、もう二度とアイリスへは行かないと思っていた。



 そして、大学生活が始まり、また夏がやって来た。


 桜の葉がまた色を深めた。あやめも半分はシュウジのことを忘れかけていた。彼氏も出来て、すっかりキャンパスライフを楽しんでいた。





 夏休みに入って1週間ほどした日曜日。あやめは彼氏とデートの約束をし、駅で待ち合わせをすることになっていた。

 駅へ向かう途中、ふと、あの路地裏が目に入った。

(まだ、店あるのかな? マスターは。……シュウジはいるのかな?)

 そんなことを考えながら、思わず路地裏に足を踏み入れてしまっていた。


 アイリスの文字が目に入る。古ぼけたアンティーク調の看板も、外装も相変わらずだ。レンガ造りの階段も、プランターの中の花も、何もかも去年と同じ。

 扉を開ける。

 ベルが鳴る。



「いらっしゃい」


 カウンターから人が出てきた。懐かしい笑顔にあやめは思わず微笑んだ。


「お久しぶりです」


 そして頭を下げた。マスターはあの時とまったく変わっていない。あやめは嬉しくてたまらなくなった。カウンター席に座るとマスターはにこやかに言った。


「あやめちゃんかい? 本当に久しぶりだねぇ。すっかり大人っぽくなって」

「大学生ですから」


 あやめは笑って答えた。マスターはやはり前と何も変わらない手つきで水とおしぼりを差し出し、カフェラテを入れてくれた。甘すぎない、上品な味。だんだんと1年前の記憶が蘇ってきた。



「これからデートなんですよ」


 マスターはそれを聞いて驚いた顔をした。


「ボーイフレンドができたのかい? あやめちゃんは可愛いからね。男の子は放っておかないだろうね」


 あやめは悪戯っぽく笑い、雑談に花を咲かせた。

(ああ、この感じ。前と何も変わらないなぁ)

 あやめは少し大人に近づき、マスターはほんの少しだけ皺が増えた。ただ、それだけのこと。

 後ろで時計が鐘を鳴った。あやめは驚いて時間を見る。約束の時間を10分ほど過ぎていた。

 あやめは慌てて席を立った。急いでお金を渡し、マスターに挨拶をして店を出た。

 マスターはあの頃と同じ優しい笑顔でまた来なさいね、と言ってくれた。あやめは大きく頷いて返事をした。



希乃咲穏仙 ( 2022/02/04(金) 08:19 )