14話
シュウジの書いた記事をもう一度読み直してから、あやめは雑誌を閉じた。講英出版と隅の方に書かれている。
「そうそう、講英出版って言うんだ。シュウジの勤め先」
あやめと同じ部分に目をつけたらしく、マスターが言った。
「講英出版って…どこにあるんですか?」
「えーとね、確か市内の方だよ。電車で30分くらいだったかな」
「マスターは行ったことありますか?」
「僕が? いやいや、あいつはそういうことされたくない人だからさ。働くところを知り合いに見られたくないらしいよ」
ふーんと、あやめは気の抜けた返事をした。
(講英出版か)
情報をしっかり頭に叩き込んだ。
「あいつの書いた記事、他にもあるんだよ。あそこの棚に入ってるから、良かったら」
あやめはマスターが指差した先を見た。本棚に、整頓されて雑誌が並んでいる。よく見ると、どの雑誌にも、シュウジの記事が掲載されていると思われるページに付箋が貼ってある。息子の仕事ぶりが嬉しいのだろう。
時計の針が、12時の10分前を指した。あやめはそろそろシュウジが来ないかと、そわそわし出した。髪の毛を手ぐしで簡単に整えた。服のしわを伸ばした。
入り口のベルの音が鳴るかどうか、それだけに集中していた。どうしてこんなにも気になるのか、自分でもはっきりしない。
(好きなのかな。シュウジのこと)
何度もそう思った。けれど、好きと言い切るには、あまりにその気持ちは淡すぎる気がした。恋愛はもっと激しいものだとあやめは感じていた。
扉のベルはなかなか鳴らない。代わりに携帯が音を立てた。あやめは、ポケットから出した。LINEが一通。母親からだろうか。
『お昼はどうするの』
(やっぱりね)
予想があたった。母親は少しのことでも連絡を入れる。
『外で食べる』
一言だけ打って、送信した。
スマホをしまい、顔を上げたとき、目の前にシュウジがいた。
あやめは驚いて思わず声をあげた。前のカウンターに立っているのは、マスターだとずっと思っていた。いつからここにいたのだろうか。
「男か」
シュウジはニヤニヤして言った。
「そんなのいないもん」
あやめは首を左右に振った。少し緊張しているのが自分でも分かった。このまま連絡先でも聞けないものかと思ったが、さすがにそんなことはできなかった。
「おかわり、いるか?」
シュウジは平然としてあやめに尋ねる。
「あ、うん」
「こいつ、マジでカフェラテ好きだな」
「はは。でも、なかなか味の分かる子だぞ」
マスターは楽しそうに返事をした。シュウジはカウンターの奥に引っ込んだかと思うと、しばらくして、コップに冷えたカフェラテを注いでくれた。
あやめはお礼を言ってから、ふと、さっき写真の下に書いてあった、『桜井玲香』のことが気になった。
シュウジはカウンターから出ると、あやめの2つ隣に座った。
「あの」
窓辺に座っていたお客さんが会計を始めた。あやめは、レジの音が気になって仕方なかった。シュウジは、何だよという目でじっとこちらを見てくる。ますます言葉に詰まってしまった。
「写真なんだけど」
ようやく声を発したとき、会計を済ませた客が、扉のベルをガランガランと鳴らして出て行った。
あやめは、その音が止むのを待った。シュウジはますます不思議そうな顔をして見つめてくる。
「桜井っていう人が撮ったやつ」
そこまで何とか言うと、あやめはようやく俯いていた顔を上げた。
(なんでこんなに緊張するのだろう)
「ああ、玲香の写真か。なに? 雑誌読んだの」
シュウジは置かれたままの雑誌を手に取る。そして、パラパラと自分の記事の載ったページを開き、あやめの前に広げた。
「これだろ? けっこう面白い構図の写真撮るだろ、こいつ」
シュウジは感嘆の眼差しで、その写真を眺めた。木造の古びた宿、紺色ののれんに、窓辺にぶら下がる風鈴の大群。あやめは、シュウジのその眼差しが何となく気に食わなかった。
(桜井玲香…桜井玲香…)
何度も心の中で繰り返した。
「玲香って、マジおもしろい奴なんだ。話してて飽きない。今度連れて来ようか? 絶対ハマると思う」
私と話しているときはどう、なんて聞けなかった。あやめは一度何とか上げた顔を、また下に向けてしまった。
(話を上手くできる女性が好きなのかな? なんでその人のことをこんなにかっているのかな?)
恋人ですか、なんて聞けるわけもなかった。
「そう言えばこの前さ、取材の帰りにラーメン屋行ったんだけど、女のくせして俺より食うんだぜ。取材でたらふく食った後にラーメンはキツイよなぁ。な、どう思う?」
「……どうも思わない」
あやめはそれだけ言うと、席を立った。シュウジは、何だあいつ、と言いたげな目で、立ち上がったあやめを見ていた。シュウジは大きかったので、座っていても、あやめより大きく見える。
マスターが、テーブルを片づけながら、あやめが帰ることに気付き、いそいでレジに向かう。
「お昼は食べていかないの? そっか、勉強があるよね。ごめんごめん」
あやめは何も言わず、黙って千円札を出した。マスターはレジを叩き、おつりを渡す。あやめは、おじさんに頭を下げ、シュウジの方を見ることなく、扉を開けて出て行った。カランカランと、ベルの音だけが響いていた。