13話
昨日降っていた雨は朝になると止んでいた。
あやめが路地裏へ差し掛かると黒と茶色のぶちの猫があやめの足音を聞いて逃げていった。
白地に焦げ茶で『アイリス』と書かれた看板が見えた。階段を上がり、レンガ造りの喫茶店の扉を開けるとカランカランとベルが鳴った。
「あやめちゃん」
マスターが嬉しそうに声をあげた。あやめは窓辺のテーブルに目をやった。三人のお客が一つの丸テーブルに座ってコーヒーを飲みながら談話している。カウンターの隅には、くしゃくしゃになった新聞に目を這わせる年老いた男性が一人。あやめはこの店で自分以外の客を見るのは初めてだった。
「お客さんを見るの、初めてでしょ?」
マスターは悪戯っぽく笑いながら、あやめの前に水入りのグラスを置いた。
「普通、込むのは平日の朝だからね。駅が近いから」
あやめは頷きながら、一緒に出されたおしぼりで手を拭く。ひんやりとして、じめじめと蒸し暑い日には心地よかった。
「今日は珍しい方かな。休日のこの時間は特に」
「シュウジさんは?」
思わず聞いてしまった。しかし、けっこう今の質問は自然だったと思い、あやめは内心ほっとしていた。何となく、人前でシュウジの話をするのは嫌だと思っていた。
「あいつなら寝てるよ。だいたい日曜は休みのことが多いからね」
(日曜はたいてい休み)
あやめはその情報を、しっかりと胸に焼き付けた。
「昼はこっちで済ませることが多いから、たぶん12時過ぎには来ると思うよ」
あやめは身体をひねって後ろの柱時計を見た。まだ11時過ぎ。12時まではもう少し時間がある。あやめはしばらくここで時間をつぶし、シュウジが来るのを待とうと思った。
「シュウジがさ……」
マスターがカフェラテをあやめの目の前に置いて言った。
「あ、カフェラテで良かった? いつもの調子で作っちゃったけど」
「はい。カフェラテ大好きなので」
これは本当のことだった。コーヒーはダメだったけど、カフェラテは好きだった。特別他のものを飲みたいと思うとき以外は、必ずカフェラテと決めていた。
「そうそう、それで、シュウの書いた記事が載ったんだよ」
「記事?」
「そう。ほら、これ」
マスターは嬉しそうにあやめの目の前に雑誌を広げた。
タイトルに『GREENS』と書かれている。月刊誌で、連載小説から、芸能情報、料理のレシピ、旅行の情報まで幅広く載っているものだった。若者向けではなく、どちらかと言えば、大人向けの雑誌のようだった。表紙の雰囲気からも、上品そうな感じがした。小さな記事に、大きく赤丸がついている。あやめはその部分を注意深く見た。
「熱海?」
熱海の温泉宿についての記事だった。旅行関連のページだろうか。宿の場所や料金だけをピックアップしたものではなく、旅先のレポートといった感じだった。
「あいつ、一人旅が好きでね。大学の頃なんて、夏休みにはいろんなとこ行ってたよ。野宿だって平気でしちゃうしさ」
「えぇ、野宿も?」
あやめは驚いた。確かに、初め会ったときは、日に焼けた顔のせいか、ワイルドなイメージがあった。
『険しい山道を越えたとき、目前に広がるのは、広い海原と、濃い緑の森。それらの大自然に囲まれ、木造のどこか懐かしい宿が一軒、ぽつんと立っている…』
普段のシュウジからはまったく想像もつかなかった。文末には、括弧の中に、『赤城修一』と書かれている。間違いなく、これはシュウジが書いたものだ。
(こんな文章書くんだ)
あやめはパソコンのキーボードに向かうシュウジの姿を思い浮かべようとした。マスターがあやめの前に2杯目のカフェラテを置いた。よく冷えていて、グラスに水滴が溜まっている。
ふと、一緒に掲載されていた写真が目に留まった。古びた木造の温泉宿。紺色ののれんが揺れている。背景に浮かび上がった空の色が鮮やかだった。その写真にあやめは一瞬で心を奪われてしまった。
(桜井…玲香?)
写真の下に、そう名前が印刷されている。これを撮った人物に間違いなかった。あやめは、この『桜井玲香』と言う人物に会ってみたくなった。