第三章
11話
 それから何分経ったか分からなかったが、近づいてくる足音が聞こえた。あやめは夢うつつにその音に気付いていたが、身体が疲れて力が入らず、顔を上げる気になれなかった。その足音はそのままま、あやめの目の前まで来て止まった。

 そこであやめはようやくゆっくりと顔を上げることが出来た。ぼやける視界が徐々に整っていく。複数の輪郭線が一本のはっきりした線になる。


「またあんたか」


 聞き覚えのある低い声がした。一瞬、子守唄のようにも聞こえた。あやめは小さく声をあげた。


「シュウジ」


 シュウジは鼻でふんと笑うと、いきなり呼び捨てか、とぼやいた。あやめはすぐにごめんなさいと謝った。


「風邪引くぞ、受験生」


 シュウジはあやめの腕を無理やり引っ張って立ち上がらせると、店の中に押し込んだ。あやめは倒れそうになりながら、店に駆け込んだ。マスターがカウンターの向こうから驚きの目であやめを見た。


「あやめちゃん、どうしたの? こんな時間に」


 後ろを振り返って、壁の時計を見ると、すでに九時になろうとしていた。


「家出少女」


 シュウジはおもしろがってそう言った。マスターはシュウジを睨んで、そういうことを言うなというように首を振った。シュウジはおとなしくそのジェスチャーに従った。


「ほら、座って。今日は冷えるのに。そんな薄着でうろついて」


 あやめは改めて自分の格好を見た。汚らしいスリッパに、よれよれのジャージ。髪の毛も走ってきたせいか、ぐちゃぐちゃになっていた。

 シュウジに促されるまま、あやめはカウンターの席へ座る。シュウジも隣へ座った。マスターはホットのカフェラテを出してくれた。あやめはかすれた声でありがとうと言い、それを静かにすすった。


「恥ずかしいカッコ」


 シュウジはからかうように言った。あやめは反論できなかったし、する気もなかった。恥ずかしい格好なのは承知だった。あれだけ急いで家を出たのだから。


「何かあったのかい? 家の人とケンカでもしたの?」


(何て察しがいいのだろう)

 あやめは感心し、黙ってうなずいた。



「若いうちだけだよ。そうやって身体ごとぶつかっていけるのは」


 マスターのその言葉を聞いたとき、あやめは思わず涙をこぼしていた。ぽろぽろこぼれ、止まらなかった。マスターは黙っておしぼりを差し出した。あやめはそれで目を押さえた。シュウジが隣で見つめていた。あやめはそんなことはどうでもよかった。ただ、思いっきりしゃくりあげて泣いた。


「いいよなあ、女はそうやって泣けるから」


 シュウジが平坦な声を出した。そして、あやめの背中を優しくさすった。途端にあやめはもっとひどくしゃくりあげた。

 悲しかったからではなかった。もちろん、それも多少はあっただろうが、本当はそうやって、もっとシュウジと触れていたかったからかも知れない。




希乃咲穏仙 ( 2021/11/07(日) 00:11 )