第一章
2話
 家を出て、あやめは近所の公園まで歩いた。小さな男の子たちがヒーローごっこをして遊んでいる。それを笑って見届けると、またどこへ行くともなく歩いた。

 公園を抜け、十分くらい歩いただろうか。あやめは人通りの少ない路地裏に小さな喫茶店を見つけた。生まれてからずっとこの街に住んでいたが、こんな喫茶店は初めて見た。

 近づいてみると、レンガ造りの古い店だった。入り口の周りに無造作に置いてある、赤と黄色の花が洒落た雰囲気を出していた。あやめは興味をそそられ、考える間もなく、扉に手をかけていた。

 扉を押すと、カランカランとベルが音を立てた。まず、入って真っ直ぐのところにカウンターがあった。木製の脚の長い丸椅子が五つ並んでいた。窓辺には、これまた木製の丸いテーブルと、背もたれのついた椅子。一つのテーブルには椅子が四つあり、それが全部で三組ある。ベージュ色の壁には、小さな絵がかけてあった。あやめ以外にお客は他にいないようだった。あやめが店内を見回していると、カウンターの奥から、黒いエプロンをした中年の男性が顔を出した。


「いらっしゃい」


 マスターであろう男性は屈託のない笑顔で声をかけてきた。あやめもそれにつられて笑うと、カウンターの丸椅子に座った。


「何にしますか?」


 あやめは小さな声で、カフェラテと答えた。


「ホット? アイス?」

「アイスで」

「かしこまりました」


 マスターはにこりと笑って言った。あやめもまたつられて笑ってしまった。

(不思議な人だなぁ)

 あやめは密かに思った。ここまでよく笑う店員は初めてだった。


 しばらくして、冷たいカフェラテが目の前に置かれた。あやめがストローの袋を破ってカフェラテに立てると、マスターが話しかけてきた。


「お嬢ちゃん、見ない顔だね。近所の子かな?」


 あやめはストローに付けようとした唇を離して答えた。


「歩いて15分くらいのところです」

「そうか、そうか。今日は初めて来てくれたの?」

「はい」


 あやめはカフェラテを一口飲んだ。冷たくて、コクのある苦みが、喉をすっと通り過ぎた。喫茶店ではたいていカフェラテを頼むが、ここのカフェラテは今までで一番美味しいのではないかと思えた。


「お嬢ちゃん、失礼だけど、ハーフなのかな?」

(また聞かれた)

 あやめはこの髪色のせいで、よくそういう質問をされる。目の色も茶色系統だったから、余計にそう見えるのだろうか。


「いえ、生まれつきなんです」

「へぇ。綺麗な髪色だね」


 マスターは慣れた口調で褒めた。さらりと女性を褒めることのできる男性は、女性慣れしていると母から聞かされていた。

(きっとこのマスターもいろいろな女性と付き合ってきたのかな)

 そんなことを考え、あやめは愛想笑いを浮かべてまたカフェラテを飲んだ。

(本当に美味しい)


「美味しいですね。このカフェラテ」


 それを聞くなり、マスターは目の色を輝かせてカウンターから身を乗り出した。


「お嬢ちゃん、味が分かるじゃない。かなり気を使ってるんだよ。 どの飲み物にも、食べ物にもね」

「こういうのって、どこでも同じだと思ってました」

「ははぁ、それが違うんだな」


 マスターはますます饒舌になり、あやめもすっかり打ち解けてしまった。

(本当に不思議な人)

 あやめはまた思った。


「お嬢ちゃん、学生さんだよね? 何年生?」

「今度、高三になります」

「じゃあ、受験生だ。大学はどこ狙うの?」

「今のところ……県内です」


 あやめは言ってから、一瞬悩んだ。『今のところ』というフレーズはいらなかったような気がした。今考えている大学にしか、行く気はなかったし、他の大学のことを調べるのは面倒な気がしていた。だから、『県内です』だけで良かった気がした。マスターは感心した顔をし、手元にあったグラスを磨きながら言った。


「ウチにも息子がいるけどさ、…あ、もう就職してるんだけどね…お嬢ちゃんくらいの時期には大学なんて一切考えてなかったね」

(息子さんがいるんだ)

 こんなに話し好きな人の息子だから、きっとフレンドリーな人に違いない。


「どちらにお勤めなんですか?」


 その質問をして、あやめは少し大人っぽくなった気がした。よく、大人同士でそんなせりふを耳にしたことがあった。


「……ナントカ出版って会社だったかな。雑誌の取材の仕事らしいけど。ま、僕の前じゃ仕事の話はしないからなぁ」


 あやめはカメラのフラッシュが激しくたかれる中で、すらりとした手足の女性モデルがポーズをとっている瞬間を想像した。


「二年前からそこに勤めていてね、まぁまぁお給料もいただいているんじゃないかな」


 マスターは磨き終わったグラスを、後ろの食器棚にしまった。


■筆者メッセージ
知り合いの受験生に触発されて、書いてみました。のんびりとカフェラテを飲みながら流し読みでもして頂ければ幸いです。
希乃咲穏仙 ( 2021/10/19(火) 03:00 )