第一章
1話
 桜が徐々に花を付け始めた。桜の枝を飛び回って蜜を飲む小鳥の数が増えてきた。筒井あやめはその光景を眺めていた。昔から庭にある桜の木。昔はとてつもなく大きく見えた桜の木は、いつのまにか小さく縮こまって見えている。


「あやめ、お勉強は?」


 家の中から母の声がする。母はどこにでもいる様な教育ママだ。あやめには小学生の頃から勉強しろと口うるさく言っていたし、塾だけでなく、英会話にも通わせもしていた。

 母に急かされ、あやめは黙って桜の木から目を離した。あやめの部屋は桜の木に面した家で一番日当たりの良い二階にある。母親の教育熱心さから、あやめは一番見晴らしの良い部屋を与えてもらっていた。そんな母の熱意は、勉強する環境にまで及んでいた。あやめは桜の木に一番近い窓辺に勉強机を置いていた。

 あやめは開け放した窓を閉めた。柔らかな風が止み、鳥の声が止んだ。部屋はしんと静まり返った。


「……やりたくないな」


 今日は日曜日。あやめはこの春で高校三年生。すなわち受験生。第一志望は県内の大学。家からも通える距離。あやめは受かるであろうと踏んでいた。国立大学だったが、偏差値は手が届かないほどではなかった。あやめが二年生のときの調子で勉強を続け、成績を落としさえしなければ、よほどのことがない限り受かると思われた。通っている塾の先生にもそう言われていた。


 机の引き出しを開け、財布を取り出し、中身を確認した。千円札が五枚と小銭が五百円ちょっと。昨日、お小遣いをもらったばかりだったから、お金は十分にある。あやめはクローゼットを開け、淡い若草色のスプリングコートをハンガーから外した。コートのポケットに財布を突っ込むと、それをいったんベッドに置き、鏡に向かう。肩の上で切りそろえた栗色の髪を櫛で簡単に整えた。この髪色は染めたわけではなく、生まれつき、色素が薄かった。


 ベッドの上のコートを羽織り、枕元に伏せてあったスマホを取ると、ドアを開け、静かに階段を下りた。そして、キッチンをそっとのぞき込んだ。母は歌を歌いながら、流し台を掃除していた。あやめは母に背中を向けると、音をたてないように廊下を歩いた。玄関まで行くと、履き慣れたナイキのスニーカーをつっかけて、そのままドアを開けて玄関を飛び出した。


 表札の前まで来てから、スニーカーをしっかりと履き直す。それから、コートの襟を正しつつ、真っ直ぐに歩き出した。行き先は特に決まっていない。




希乃咲穏仙 ( 2021/10/15(金) 22:27 )