準備
「ああ、もう〜! 遅かったじゃない、璃子〜」
リビングへと向かうと里奈が早速声を掛けて来る。
「ごめんなさい、松田さん……。部屋に戻って忘れ物を見つけたのは良かったのだけれど、やりかけのレポートの事がどうしても気になっちゃって……」
俺は里奈にそう弁明している最中、保乃と目が合う。
「あれ……? そう言えば田村さん……。まだお夕飯に来られていない方が居るみたいですけど……」
いないのは森と守屋という女である事はすぐに分ったが。
「……はい。守屋様は夕飯はいらないとの事でして、森様にはこれからお部屋の方にお持ちする所で御座います」
保乃の手元にはお盆の上に食事が載せられていた。
(わざわざ頼む手間が省けたな)
「……そうですか。では先にそちらに向かって下さい。私の分はその後でも大丈夫ですから……」
何か言いたげな保乃だったが、基本雇い主である俺に逆らう事は無い。
そのまま軽く会釈をし、中央階段の方へと向かう保乃。
(……『ゾルピデム』の効果が現れるのは約30分後か……)
俺は脳内で計算する。
たとえ森がアルコールをかなり摂取し、血液の巡りが早かったとしても、保乃が食事を届けるまでに眠りこけてしまう事は無いだろう。
(……次にしておくべき『保険』は……)
俺は隣で話に華を咲かせている里奈と隆司の、さらに奥の席にいる信太郎に話を振る。
「……そう言えば森さんは津田さん達の上司の方なのだとか……」
食事を終え、ワインを飲もうとしていた信太郎は手を止め質問に答える。
「うん? ……ああ、そうだよ。部長もこういう時くらい皆と食事すれば良いんだけどなぁ……」
少し小馬鹿にしたような言い方で更に奥で食事をしていた理佐を見やる信太郎。
「……部長はあまりこういった催しが好きな方では無いからね。……何か気になる事でもあったのかしら? 松平さん?」
今度は理佐から俺に声を掛けて来る。
「あ……いえ……。船内でご挨拶させて頂いた時、何やら塞ぎこんでいらしたご様子でしたので……」
完璧な演技をする俺。
気を張っていないと、ついニヤケてしまいそうになる。
「そう…ね。……食事が終わったら皆で少し顔を出しておきましょうか、津田君?」
「……ああ、そうだな……」
満足のいく答えを得た俺は安心し、ようやく水を口に含む。
(……?)
(そうか……)
水を含んだ瞬間、口が一気に潤った感じがした。
(そうだよな。これが普通の人間の『感情』だ)
俺はこの時初めて―――
―――自分が『緊張』していた事を知った。
しばらくしてリビングに空のお盆を抱えた保乃が戻って来た。
「……お待たせ致しました松平様。すぐにお食事をご用意致します……」
そう言いキッチンルームへと姿を消す保乃。
(あの様子なら、まだ森に変化が無いという事だろう……)
俺は料理が運ばれて来るまでの間、里奈や隆司達との談笑の輪に入る事にした。